記稿.2026/01/20
> 仏陀の意図する〈中道〉の意味は、中華に翻訳される過程で濁ったらしい
> 結果、その漢字印象から来るままに、何となくの〈中程〉を選ぶべき???‥に堕ちました
‥‥はい、私達はすぐに〈自惚れ〉ていたりします
もしくは〈自己憐憫〉をしだします、何故でしょう‥‥
それな偏りをどうにかするための意味として、中道が唱えられてあるのですが
翻訳の段階で濁って居る様どえす
もともとは、右と左の真ん中を選べのような意味ではございません
そんな事で迷いが晴れて自惚れも消し飛ぶなら、AIだってブレたりしませんよ
でもその程度の解析だと、加えるデータ次第で簡単に、予想を外して壊れるで草
> ‥実の〈中道〉理解では‥
> 八正道の〈正〉ですら、正しく翻訳できているのかに疑問を問い掛けます
‥‥何はともあれ‥‥
人が上に立つほどに、過去のしがらみを解釈で濁すことなぞ不能です
だからといって、未来永劫突っつかれる言われもございません
だからといって、俺は知らねぇよと背負わずにスルーもかないません
つまりは、宇宙の業のすべてを背負わざるを得ずして
〈宇宙即我〉などおこがましい限りでしょう
「世界事象のすべてが私です。それが私で在る事に相異ございません。
其処の立ち位置・立場に在るのが私にございます。
すべて私の創造なり、創造たる私なり。幻想にあり幻想に非ずなり。」
其を勇ましげに〈背負う覚悟はあるか?〉
なんて台詞に置き換えられがちですが、そうではありません
> テメエの中にそれだけの業が潜んであり、知らん顔なんてできないのだから
> 「真っ直ぐに受け止めるとは何か?」とした姿勢を求めておるだけのことで
> ‥‥聖と邪、その両方に然り‥‥
性善説やら性悪説とした言い分とて、そのままの偏りでしか無いのなら
‥‥どうしたって‥‥
「私は正しい」「俺はカッコイイ」などの自己満足を得たいが為の
自己満評価に酔い溺れたいだけ‥なんぞ、なんら価値に無きこと
そこを建前にして、理由にして、正当化することの虚しさを覚える所となり
斯様が、腑に落ちて来るのです
(すべてが自分であり等しいのなら尚のこと、其を基準に踏まえたなら)
(おいそれと‥何々だけが素晴らしい・間違いだ‥などとの不遜は不快なり)
(対等では無いなどとは‥思い上がりであり‥違和感でしか無いのだ)
> その腑に落ちて在る心の明鏡止水を〈中道〉と呼ぶのです
> 斯様なる心構えを〈礼節〉と呼ぶのです
‥この世界では、そこに近づくほどに我が身を正しくつくり出すらしく
ブレればブレるほどに、歪んだ人生を歩まざるを得ずというのが真相の様であり
そこを知らずに、押さえずに、我武者羅にやれば良いという事ではない
とはいえ、学ぶべき事は学ぶべき事として、立ちはだかりますからなぁ
その時にこそ〈中道〉と〈礼節〉を試されているが如し‥‥ああもう面倒くせぇ‥‥
> ちなみに、仏陀の場合
> この世のすべてを〈生老病死〉たる〈苦〉として語るが手前
> 火に油を注ぐなんてまっぴら御免と言い渡してある様なものゆえ
> いくら自由だからとて、其処に覚悟さえあれば何をしても良いなどと
> 述べてあるわけも無し(お間違えなく)
‥‥わざわざ後で後悔することになる其を、その時の感情任せにやらかしてどうするの?‥‥
そこを徹底してるのが仏陀であり、仏陀以外にそこまでの御仁が居るのかどうかは謎なり
‥神の多くの半分は〈戦士〉〈戦闘狂〉どえす(どんだけ〜)
その辺りの矜持は、また別の中身でしょう
でもまぁ、迷いが無くなる秘訣とやらは、誰であれ何であれ‥興味津々で御座‥

