2009年07月29日

救助ヘリのデザイン

 「救助ヘリのデザインはなっていない。」

 映画やTV報道で見せられる救助ヘリを用いた救助活動の様子を見る度に思うことがあります。
「あのヘリの足は邪魔だと‥」見る度にあんなデザインでは、効率の良い救助にはつながらないとつくづく思ってしまうのです。
 資本レベルで言えば、製造元の主体にあるのが米国の軍産複合体との絡みでしょうから、人道的な要素よりも、戦場における兵器としてのヘリはこういうモノでしかないという認識の方が強いのだと思います。
 民間からの新規参入にしても、差別化できるような主張に疎いのかもしれません。

 しかしながら、人道的活動に活躍する現在の状況において、救助用のヘリに何も進展性が見られないというのは、世界中のデザイナーはどこを見ているのか?‥と思ってしまうのです。

 仮に使い勝手だけを申せば、底部の土手っ腹に人が出入りできるような穴を設けて、そこからワイヤーと隊員を降ろせる仕組みが簡単な思いつきとして浮かびます。
 すると、いささかにも、救助者が水流に流されている状況におけるような引き揚げ作業はぐっと楽になるはずです。必要があれば、ヘリ底部にカメラを設置すれば、操縦する方もその引き揚げ時に要求される細かいコントロールが可能のはずです。

 さらに、付け加えるならば、ワイヤーの先に浮き輪を付けて投げても、流れが急であったりすると救助者に対してうまく渡せる確率は上がりません。
 そこで、ロボット技術を応用してみるのも一考かと思います。
ワイヤの先端にスネークロボットを装着し、上流方向から救助者に向かって発射させるのです。発射と言っても、救助者のそばに着水させるわけですが、スネークロボットであれば、発射時はまっすぐの姿勢に、着水後は、ボディをくねらせて救助者に接近し、そのままボディを救助者に絡ませて確保すると言った用い方になるかと思います。
 スネークロボットの誘導は、ワイヤーに通信線を繋げておき、機上から誘導するシステムが考えられそうです。もちろん今やAIであったり無線通信でも可能にありますが、修羅場の状況において両方を用意しておくことは備えです。出力も必要ならば、機内から送出できる形かと思います。
 なんにしましても、スネークロボット自体が流されてしまっては意味がありませんし、その流れに対抗でき得る大型のモノをヘリに積めるわけもありません。そのため、その能力はあくまで、浮き輪の方から救助者に接近できる能力が装備されている感覚です。
 そして、その使用は確保が目的ですから、確保後は、レンジャー隊員が機体の穴からワイヤーを用いて降りていき、救助者の姿勢を保ちつつ引き揚げます。従来であれば、この時のヘリの足がかなり邪魔にあるわけですが、底部の適度な場所に穴があれば、操縦にも無理がないと思われます。

※そのスネークロボットにカイロ機能が備わり、救助者を確保後は、体温の確保も成り立てば、なおよろしいかと考えます。

 あとは、ヘリ自体に、風に煽られても安定していられるような形と構造が求められるところです。
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2009年07月22日

郷活主義

 「郷活」の文字を目にしてまず思い浮かぶのは、自給自足、地産地消だと思います。
確かにそこは基本ラインにある言葉です。
 しかし「郷活主義」として大きな方向性を打ち出すには、理想とする社会体制のあり方を提示できなければ成り立ちません。そして、自給自足に地産地消をモットーにされる方は多くおられても、なかなかそこまで意見主張を広げられる方は無いように思います。
 そこで、その辺りをうんちくしてみようと思い立ちました。

 グローバル化した経済構造において現在為されている主張は資本主義です。
その資本主義の危うさは我が国の食糧自給率40%にまで落ち込んでさえもなお、成り行くと誰しもに錯覚させている所にあると思います。実際、そんな地に足のついていない国家経営はまやかしに過ぎません。
 なぜなら、経済不均衡の現実がそこにあるからです。お互いの国家がフェアーにあれていないからこそ成り立ってしまっているのです。だからといって、即刻、為替変動を廃して1:1の世界にしてしまえば、我が国に住む人口の7割はたぶん、半年をしのげずに餓死に直面するように思われます。
(※ 為替が1:1ならば運送コストの分、産地に近い方が買い負けしないため。最後に日本に売ってやれば良いという転がし転売が可能。北米なら中南米に競り負け、豪州なら東南アジアに競り負け、中国なら内陸部に競り負ける。)

 そこに潜む危機感をないがしろにして、地球温暖化対策を資本主義で推し進めて行くしかないと考えていれば、その危機感はますます現実的なものになるはずです。
 所詮は資本主義です。勝ち残ることだけが正義にしかあれていない世界観です。一次産業主体への転換を人々が求めようとも、シェア獲得の早い者勝ちにしかない=生活するのに十分にあれないのであれば、それは深刻化するだけです。
 また、深刻化してしまえばしてしまったで、地球規模での人口増加にはなおさらに対応できず、万民に向けられた幸福の追求などそれこそ幻想のまやかしにすぎない無力さを覚えるだけの後の祭りです。
 資本社会・グローバル化の基本にある市場競争の論理で行けば、地場産業の成長速度には何らおかまいなしに事が進んでしまいます。お互いに生きている以上、待ったなしはそれなりに受け留めるとしても、説明も準備も十分になく、いつの間にか地場の方から淘汰に追い込まれているのがそのスタンスです。
 その上、市場での主権を担うには、シェアの獲得であるとか、資本効率であるとかばかりが殊更に主張されています。一体全体、一部の勝者・挑戦者たちにそこまでの権利などあるのでしょうか?

 地場を育てると言うことは、そのような競争の論理とは違います。
人間ひとり一人には成長を地道に歩む権利もあるのです。
そう言う社会体制が生活の中心にあっても良いと思います。
 歴史や時代の天才をもてはやし、そこにばかり人間的価値を集中させている姿勢も如何なものかと思います。
 そして結論づけたかのように、才能ではなく努力にあるとは言うものの、実際、基本的な人間の価値は努力の大きさでそれほどに変化するような代物ではございません。差が生じるとすれば、民族的規模で為される文化力の差となります。

 医者はどうでしょう?、努力のあり方の差で患者を診ますでしょうか?
レンジャーの方はどうでしょう?、経歴を調べてから助けようとしているでしょうか?
馬車馬労働のなれの果ての不養生の末に、努力の足りない人だからと‥医者にそんな顔をされたら、歯を食いしばる頑張りなど何の価値もないという裏返しになってしまいます。
 そのくせ、同じやり方で医者が競争し合っていれば、そうあったで、医療ミスの増加は織り込み済みです。努力って何でしょう?、競争って何でしょう?、経済成長ってなんなんですか?
 資本主義のやり方で、みんなでぼろぼろになるまでがんばっても、良い医者の数は増えません。
良い治療に巡り会える絶対数の方が少ないのです。それが競争社会の刹那です。矛盾です。
 一流はしょせんどんな時代でも指の数でしょう。それが一流という評価にあります。
それでも、底辺の底上げはやり方を変えればいくらでも望めます。
そしてそれは資本主義ルールの下においては不可能です。

 上場企業は、社会的責任を背負うことにあると自慢げに主張しています。
その割には、生き残ることをその理由に挙げて、今の時代は即戦力だけを求めている有様ですとこぼします。
 自分で自分を完全に育て鍛えてから門を叩きなさいなどとは、何様のつもりなのでしょうか?
育った環境の善し悪しの差がそのままに繁栄されてくる状況を露呈し始めているのが今の時代です。資本主義構造の末期症状です。
 これほど人権のあり方に矛盾した主義主張が、これ以降も世界のスタンダードとして成り立つとすれば、民主主義における平等は死ぬだけです。

 今こそ足下を見直し、本来あるべき人間同士の和を保てる構造にあらためるべきなのです。
そのような方向性を見いだす言葉として「郷活主義」をここに主張して行きます。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 12:00 | Comment(0) | 破棄処理中 | 更新情報をチェックする

2009年07月12日

【歴史】インカ帝国の政治

1-4)改稿.2014/10/21...20090712...

> インカ帝国の政治で一番に際立っているのは、
> なんといっても、全長5万キロにも及ぶと言われるインカ道です。


 インカ道にチャスキと呼ばれる飛脚を置き、皇帝への伝令伝達を機能させていました、

 チャスキを機能させるために、
 3キロ毎にチャスキワシと呼ばれる待機小屋が用意されていました。
 それと同時に、タンボと呼ばれる宿場町が20キロ毎に設けられていました。

 その20キロなる単位は、リャマの一日に移動できる距離です。
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2009年07月11日

【参考】これはなんだ!7m巨人の化石?

1-1)改稿.2015/08/24...20090711...

巨人の化石1.jpg

巨人の化石2.jpg

巨人の化石3.jpg

巨人の化石4.jpg

巨人の化石6.jpg

巨人の化石7.jpg

巨人の化石8.jpg

巨人の化石9.jpg


 ご覧頂いた映像は、合成とか物好きが趣味で作ったり描いたりしたようにはとても思えません。
 あきらかにこのような現場が実際にあった記録だと思われます。
 そして、9枚目の映像に立っている人物の身長を1.8mと考えれば、
 横たわっている巨人はその4倍にあたる7.2mぐらいになります。
 おそらくこれは現実です。このような巨人がその昔の地上に生きていたことになるのです。


> ちなみに、7m巨人に関するよりマニアな情報はこちらです。
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posted by 木田舎滝ゆる里 at 15:00 | Comment(0) | 宇宙な? | 更新情報をチェックする

2009年07月03日

民族人道

 民族人道を口で語るにしても、それを政でとりまとめて行くにしても、誰もに「これだ!」という見解を示せるものではないと思います。とくにこの場合は一民族のことを指しているのではなく、地球民族としての人道とは何か?‥どのようにあるべきなのか?を問いかけておるわけですから、なおさらに道は険しいと思います。

 とくに一昔前の人道観と今どきの人道観とは見解もまったく異なっています。
昔は今と比べれば、何もないぐらいの暮らしで成り立っていましたから、人道を通すこと=土着を生かすことでした。大局で見ればそれでほぼ釣り合っていたと思います。

 でも今はそうではありません。
「モノが無ければ無いで、有るところから持ち込んでくればいい‥」皆さんふつうにそう思っています。その結果、外来生物問題であったり、海外市場との競争にさらされていたり、大気汚染の煽りを海の向こうから心配しなくてはならない状況にあります。
 それでも、一度味わってしまった取り組みを今更やめられないとばかりにあります。

 海外支援の話にしてもそうです。でも実際、モノや箱だけの支援は本当の支援ではありません。人材の派遣から始まって、現地での技術者の育成、そしてその物事に関連した理解がその土地の人々に浸透してはじめて支援が成り立つのです。
 しかしながら支援と言っても資本主義の本質はそんな生やさしい論理を持っていません。
教わった→理解した→じゃ競争しましょうね。それが資本主義の刹那的な側面です。
 そんなのは、ちょっと子供におしえたばかりの麻雀でプロが賭けをふっかけているようなものです。それで、かわいそうだからと言わんばかりに誰かがフェアートレードを推進しましょうと言い出しているのが最近の流れです。
 実際、生活はゲームではありませんから背に腹は代えられません。それが一つの人道なのかなぁと思わせるところがあります。
 しかし、よくよく考えてみれば、それは何一つフェアーになどあれていません。
本当にフェアートレードを突き詰めて行けば、変動為替を廃止して、1:1の取引をしてゆくことが一番であるはずです。

 すると、その瞬間からチョコレート1枚は千円2千円‥して当然になるでしょう。
輸送コストや人件費を真面目に考えればもっと高くてもおかしくありません。
 まずいうまい、その土地に暮らす人々の口に合う合わない、そのような要素を考慮したとしても、輸送コストと賃金とが世界均一にそのまま商品にプラスされることになりますから、どこの国でも食料生産における保護政策、輸出規制をする必要などないぐらいになるはずです。
それはなによりもまず、自国での食料自給率の確保が大前提になるからです。
 その次に建材の確保です。国内だけで資材がまかなえなければ、家を建てることはやっぱりお金の掛かることになるわけです。コストを勉強しようと思っても1本の柱が育つのに20年は掛かります。人間の成長とさほど変わりのない年月が必要になるのです。それが土地に根ざしたリズムというものです。
 そのリズムに魔法をかけていたのが為替変動です。

 為替市場の相場が需要と供給の関係で成り立っていると思ったら大間違いです。
銀行家同士の話し合いで決められていたのです。銀行家と言っても闇組織・一族ぐるみという内容にあると聞きます。
 彼らにとって為替変動とは、右から左に資金を自由に動かせるようにしておくための上策です。お互いにそう思い込ませておくための一つのトリックでしかあれません。なんにせよ資金力が多ければ多いほど市場を操作できますし、そのための紙幣発行権限を手中にしておくという巧妙なカラクリにありました。
 もともと金本位制時代に、限られた金・銀をやり繰りするための手段だったのです。為替で変動させることができれば、それなりに都合を謀りやすかったはずです。

 国の代表同士、政治家同士の話し合いなど大方茶番だそうです。その闇組織が上から仕切って指図しているか、両立てで手先を送り込んでいるかのどちらかだそうです。
 たとえそうであろうと無かろうと、フェアーにトレードすることを考えて行けば、答えは決まっています。為替の割合に何を?どう基準とすれば?定めれば?この先の公平が確保されるのかを、よく考えてみれば良いのです。
 民族人道の考えであれば、うむを言わせず「1:1」それがフェアーにあると思います。
まずはそこからはじめなければ、どこの国も納得しないでしょう。人口大国であれば小国よりもより多くの通貨発行を希望して当たり前です。そうでなければ一人あたりの持ち高など国際間で公平にあれるわけがないのです。
 人間の価値が等しくあると思うのなら、同職同種にあたる基本賃金のあり方に世界のあちこちで差があると言うこと自体がおかしいのです。為替という差が発生し続ける限り、永遠に解決することはありません。そう思います。

 そこをまず押さえることで、他国への工場進出等を見直した場合、自国で足を固めるのが手っ取り早い仕組みとして戻って来るのです。人件費が同じであれば、わざわざ海外に展開するメリットなどあまりありません。それこそ進出した国で技術や文化を土着させて行かせるぐらいの勢いでないと続けられないと思います。そして、その国の人たちに受け入れてもらえなければお話になりません。それが人道的にあれる流れなんだと思います。

 その時、技術的支援を求める国があれば、支援を求める方も支援する方も、最先端を導入して行くのか、それともその国にあった方向で検討して行くのかを選ぶ必要があると思います。
 ここを従来通りの商いの競争だけで考えてしまえば、それは単に売った買ったの皮算用の限界として現れます。高い資金を出しました→うまく行きませんでした→街のど真ん中にゴミができました→資金がないのでそれ以上に展開させることができません。
 それが市場競争の罠であり、限界です。
でも国民通貨としてその代表である政府が赤字と無縁な通貨を必要なだけ発行が可能であり、かつ、どこの国とも為替が1:1にあるならば、足踏みをしている必要はもうありません。可能な限り挑戦することができるのです。
 しかし、この時に注意しなければならない点があります。
それは国家が、国民が、お互いに自分たちの方針に理解を持ち合わせていなければ、ゴミが溜まって行く一方になるという結果を招くことです。買い物をし続けるとはそう言うことです。
 それらの資源をあとからリサイクルできずに埋もらせてしまうことこそ、宝の持ち腐れであり、本来あるべきデフォルトなのです。でもそんな話は聞いたためしがありません。
 「お金の価値(経済的価値)が無くなったからデフォルトが起きる‥」
皆さんそう理解されています。しかしながら、お金の価値がなくなるというのは、実際の所、その国の文化価値が無くなったことであり、暮らしている人間の価値が低下したという意味です。
 一体誰がそんなことを断言できるというのでしょうか?
あり得ないと思います。たとえ昔ながらの暮らしで十分であっても、その国に国際的な交流を望む者が一人でもおれば、そこに適度な資金を投じて行ける仕組みはあるべきです。そこに文化価値がありませんからそのような通貨の発行はよろしくないなどと誰も決めつけられないと思います。

 あえて言っておくならば、それをダメだと決めつけて来るのはいつも投資家の論理です。
「お前に投資したのはこの私だから、私に従え、嫌ならすぐに資金をお前が払って返せ‥」お約束の台詞です。払えないとわかっていればこそ、借り換えを永遠に続けさせて、逃がさず殺さずの金利を求めて来るのです。このようなお金のあり方のどこに人道があるというのでしょうか?
 その後ろでは、変動為替と強い通貨の発行権限をいくつか手にしている算段が控えています。
そして強力な軍隊の確保です。それが闇の投資家の恐い者知らずな論理です。
 それを人類の有史の記憶から述べてみれば、村の掟とよく似ています。
村に属することで外敵からの安全を保障してもらっていた。その掟が嫌なら、この村から出て行け‥実によく似ていると思います。それでも土地に根ざしてやっていた分だけ、村の掟の方がまだ自然とのリズムを守っています。それが村の掟でもありました。

 でもどんな投資家にもそんな論理はまずありません。儲けるためには科学で証明されないことに耳を貸すこともまずありません。まずは兎にも角にも損失を出さずに経営してもらうこと‥それが大前提なのです。
世の中持ちつ持たれつなので投資としての掴みはそれで十分だと思います。
 しかしながら、民族人道の視点からすれば、明らかに自分たちの足下である生態系の破壊を押し進めてしまっている事柄に対してははっきりと‘NO’であるべきです。
 とくに原子力がそうです。核汚染廃棄物の増加で何が一番に良くないかといえば、汚染水が出続ける点にあります。地球は生きています。その中にある水は連動しています。人体で言えば体液と連動しています。たとえ頑丈に隔離しておいても連動しているのです。原子力の廃棄から出た物質を冷やすのに大量の水が必要とされています。200年ぐらい漬けておかないと冷えないと聞きます。そんなんで原子力開発を盛大にやろうなどとは全滅行為に等しいのです。
 DNA操作にも同じ事が言えます。外に広まらなければ良いと思われていますが、地上で興されていることはすべて地球上に存在するすべての生命に波及します。人間がわざわざ行っているDNA操作は自らの遺伝子に奇形や新種のウイルスを持ち込んでいるようなものなのです。ラボである内は大丈夫などと考えていると、それらの行為の蓄積が次第に取り返しのつかない事態を招き寄せてしまう可能性を持っています。

 この2点は現在、非常に悲観的な末路を可能性の中に引き寄せてしまっています。
民族人道は、もはや科学知識の誤認すら許してもらえない段階にあるのです。
競争の一側面である美酒に一喜一憂している発想では成り立たないのです。そのような難しさがあるのです。それこそ宇宙人や神霊にでもうかがってみなければなりません。
 しかし、実際の所‥彼らの人類に対する見解は、実験とか修行とか、宇宙の縮図だとか何やら人類のやること為すことの善し悪しを知っているにも関わらず、必要だと思われている範囲でしか諭してきません。その教えたことをどのように解釈するのかも実験に観察の模様なのだと言います。

 所詮は、地球民族として解り合おうとする姿勢にこそ、真実がもたらされるのだと言わんばかりです。まぁそんな話に宇宙人も神霊も居ようがいまいが関係ありませんけどね。でも実際ちゃんと居ることはいます。それで死んで会えるのか?と言うと、そこもまたケースバイケースでしかあれないようです。死んでも生きていることの意味、それが証明になることの意味すら理解できないようでは会う必要もない。
そこはもう、死んでからもお付き合いの世界の続きにあるだけです。
 ただし24時間ベタで観察されていることだけは確かです。否、見守っておられると言っておきましょう。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 04:04 | Comment(0) | 破棄処理中 | 更新情報をチェックする

2009年07月02日

【歴史観】理想に凶相あり

1-4)改稿.2014/10/20...20090702...

> 世のため人のためと理想を掲げて生きる‥


 その類いの伝承を聞けば聞くほどに、多くの者が吾も続けと思うのでしょう。
 それでもその理想を一字に表して「義」に生きることと、
 故郷への想いゆえに生きることとは、大分違うように思えるのです。
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posted by 木田舎滝ゆる里 at 00:55 | Comment(0) | 歴史 | 更新情報をチェックする