2009年11月28日

{国債利回り}≒{消費税率}と見た場合

 近年、毎年のように30兆円程度発行されてきた国債の利払いに必要な相当額を2%と見れば、随時6兆円が求められる事になります。
800兆円に積み上がった国債の固まりならば、2%では16兆円です。
1000兆円に積み上がれば、2%で20兆円になります。

 我が国の現在の消費税率5%。格差あれども景気の良かったときで、消費税歳入はせいぜい10兆円を満たすか満たさないか程度なのです。
 名目GDPが500兆円を越えていたのならば、単純にその5%の25兆円程度を見込めそうですが、基準期間における課税売上高の特殊ルールが加わり、その配慮から想定される枠の40%以下にとどまる形です。

 その時、{国債利回り}≒{消費税率}の裏付けにもとづいて、国債発行に何も支障を来さない考えにある方向で、政府と日銀とBISとで合意しているとします。

 すると、国債に見せかけの危機から見せかけの暴落を起こせば、消費税率5%据え置きでも、闇勘定のやり繰りで幾分成り立つようならば、そのように仕組むかもしれない印象も想像できそうです。
 一方でそれを嫌い、健全に消費税歳入10兆円程度を維持確保したければ、景気動向との兼ね合いから消費税率8%程度への値上げが想定される流れを見せそうです。

 その上で、消費税だけで1000兆円時代に対応させる気であれば、デフレ・スパイラルによる消費悪循環を考慮し、そこからの全体的な落ち込み分と事業単位での課税売上高の未達分増加を鑑み、20兆円分の確保を狙うならば10〜18%が必要とされる勘定も想像できそうです。
想定GDP420兆円×0.18×納税率3割=22.68兆円といった様子かと思われます。
 そしてこの数字は、巷で議員さんたちが消費税議論で口にする値を、あれこれ消費税枠の使い道なりで提示せずとも、{国債利回り}≒{消費税率}で考えてしまえば、すんなりと浮かび上がってしまうのです。

 なぜ、このような見解を示すのかと申せば、ローンを先送りさせるには、利息分だけでも受け取れれば宜しいとする投資家の見解がそこにあると思えばこそです。
なんにせよ、国家が潰れない限り、利息を手に発言力を行使・維持できるからです。
このような取引手法はさほど珍しいことではありません。


※ 断っておきますが、銀行側に紙幣発行権があり、いくらでも貸し付けることができる仕組みにあれば、お金はなんぼ借りてもらっても宜しく、その債権を商品にしてしまえる利用価値があれば、なんでもやるのが金融だとの見解あればこそです。

 紙幣発行権があるとはいえ、貸す方は慈善事業にありませんから、金利分を自ら刷ることで勘弁してくれるわけではありません。
そんなことをしても、発行権を行使する意味での貸し付ける意義を失います。商売を有利にしたいからこその利権確保にあれば、いやらしいまでの使い方をしてくるのが西洋の商魂(西洋かぶれな商魂)です。
 ゆえに、個人を相手に商売をするよりは国家ですし、消費税から商品への利払いが成り立てば、自腹を切らずに自分たちの発行したお金として回収もでき、そのお金を株式と絡めて出し入れすれば、事実上すべてが自分たちの支配下に収まるという計算なのでしょうか。

 ‥とはいえ、何故にそこまで国家を食い物にしてまであこぎな商売にいそしむのか、それこそ闇商人の間に付きまとうとされる悪魔教崇拝との繋がりを考えなければ成り立たないと思います。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 07:15 | Comment(0) | 国債 | 更新情報をチェックする

2009年11月26日

紙幣と国債、そこに在りし腸

 銀行が紙幣発行権を握るという仕組みにある時、金融供給するという国家の果たす役割は、手段が国債という赤字発行でしかないために、最後の砦たる金融供給の役割を本質的になしえておりません。
 それが、借り手=発行の発生(条件:返済の裏付け)=通貨の供給源でしかあれないという摩訶不思議な中身なのです。借りれば借りるほどに赤字の額しか増えないのが銀行発行の実際なのに、借り手が居続けない限り金融供給が成り立たないのです。
 そこで、国債という大きな借金を足がかりに、民間が個人や企業の借金返済を試みるわけですが、国の借金をも返さなければならないという絶対的な無利子無返済資金の循環不良がそこでは起きているのです。
 これはなにも経済の循環を速めれば良いという訳でもありません。
速めた所で、誰しもが稼いだ先から金利分を支払うのであれば、結局の所、流入されている金融の全体量は銀行の金利利益として減り続けて行くからです。
さらには蓄えて行く端から消費に回すほど、経営の勝利者は愚かではありません。
 つまり、国債と個人ないし企業の借金の返済を同時進行でしなければならないのであれば、実質どこもかしこも多重債務状態だというオチなのです。
「一体どこから無利子無返済にある発行が為されるというのでしょうか?」
「銀行は無償でお金を卸してなどくれないのです。」
「皆が同じやり方で、グローバル経済にあれば、地球規模で余裕など無いのです。」
「環境を犠牲にするのですか?命を犠牲にするのですか?」

 無利子無返済発行の存在を欠かしたままに有る経済とは、そういう事なのです。
人類はこれへの問いをお互いにせず、今日の経済事情を語らい、自分たちの成果を、生存を、ただ保障してくれとばかりに無作為にさわいでいるだけなのです。


 紙幣発行の元締めが中央銀行にあり、その総元締めがBISだと聞きます。
中央銀行が紙幣発行権を握るのならば、なぜその傘下にある市中銀行が破綻してしまうのかがこれまた不可思議な中身です。
 それゆえに、そこにある真実が一般に知れることが無きように様々なトリックが為されて来たのです。

 例えば…「誰かが担保を銀行に入れて、その評価額より大きな借金ができるのはなぜでしょうか?」最近では無担保のケースもあるわけです。
 皆さんの預貯金だけで銀行の運営が為されているのならば、普通に全体を見渡しても、経済のパイが飛躍的に大きくなるような貸付など成り立つわけがないのです。
 銀行の金庫に納まっている分の預貯金の範囲でしか貸付が成り立たないのならば、民間競争など成り立ちません。健全に考えればそのおかしさに誰しもが気がつきます。銀行業だからと言って、手持ちの資金力以上に儲けを狙い、無理に貸し付けてみても、安易に競争を煽るだけで混乱の元にしかならないことぐらい誰にでも判ります。
 ただし、特定の企業にしか貸付がされないなどとあっては不公平そのものです。
それゆえに、その不都合さえ解消されれば誰も文句など言わなくなります。すべてはそこに原因があるのです。

 どうなっているのかもよくわからない貸付の内部事情を知ることもなく、平等を盾に、安易に貸してくれと群がるのが自由主義の性格です。
「借りた金は返せ」それが資本主義の鉄則です。
そして、その表面的な意味において、何一つ問題は発生していないかのようです。
 それでも実際は、誰かが借りることでしか通貨は供給されません。それが近代以降、融通性の利いた紙幣の魔力にあったのです。今では電子情報として管理されていますから、その魔力はさらに増していると注意すべき段階に来ているのです。
国債を発行してみても格差しか生じないのであれば、もはやその古いやり方自体が限界なのです。
 競争の果てに誰かが利子を含めた元金の返済を終え、勝利し、蓄え、無借金経営を心掛けるならば、上から順にどんどん流通通貨は吸収されて行き、出遅れ組に期待されるおこぼれは、それこそ自分たちが借りてきた金額の増量分だけなのです。
 その時、だからといって誰しもは財産所有の自由を否定する見解を冒すことはありません。それがなくて何を努力の対価として認め合えば良いのでしょうか?
 そう考えたならば、通貨を発行する仕組みが銀行という建前で管理されてきたとして、根本的な問題がそこにあることに気がつかなくても当然だったのです。
それが中世的な貧しさ、否、思い込みからの脱却にあった流れです。


 そうとは知らされず、みんなで思い込んでいるままに、銀行の金庫に納まっている預貯金枠からの貸付でしかあれないのであれば、どこをどう考えても、別の意味でのお金の貸し渋りが議論のやり玉になっている時代があってもおかしくはありません。
 しかし金融に先んじた欧米の歴史を紐解いてみても、そんな記述は一般には転がっていません。
ただあるのは王様お抱えの貸付商人を委された者たちの存在だけです。彼らがその問題性を認識していた上で、世に出ないように封印してきたのならば辻褄は合います。
その中核となる存在がロスチャイルド家と言われています。
 それはそのままに、競争を煽るためのお金の貸し手が、紙幣発行権を行使して、何らかの形で発行増し(印刷)した紙幣から貸し付けているという事実がなければ成り立たない事を意味するのです。
一般にはそのあり方を素知らぬ顔で「信用創造」と呼んでいます。

 信用創造とは、市中銀行が中央銀行に準備預金と呼ばれる形での担保を納めると、その何倍ものお金を貸し出すことが可能になるという仕組みです。
 預金準備率が1%に取り決められているのならば、中央銀行に壱円を準備立てるだけで百円が借りられるのです。0.01%であれば壱万円です。
 ただ、無制限にそんなことをやっていたのでは世の中はあっという間にインフレに陥ってしまいます。そこで市中銀行に対して「自己資本比率」の保持という約束事を設けて守らせるようにしているのです。
 それはつまり、銀行自体の経営にも、きちんとした利益確保がなされなければ、銀行業の免状を取り上げますよ‥という下りです。不景気になるとよくこの自己資本比率の話が持ちあがりますが、その核心にある発行権の存在を象徴するような報道は何もされることがありません。
 なぜかと申せば、そこに知られたくない闇があるからです。
闇が無くとも自己資本比率の基準が10%にあるのならば、中央銀行の預金準備率をも10%以上に求めなければ、市中銀行の内訳など、あっという間に他人資本に押し潰されることになると思います。
 とど詰まりの貸し渋りです。それはそれで経済の進歩が急速にはあれないことを意味するのです。

 当然の流れとして、みんなでその存在を知らなければ、頼みの綱は国債という話になってきます。そして、国債発行は中央銀行からの借り入れを意味するのです。
「なぜ、最後の砦までが、借金を重ねるという仕組みを渡り続けるのでしょうか?」
 国債の裏付けが市中銀行からの借り入れと異なる点は、それが通貨発行と連動するからです。紙幣の額面から一枚あたりの経費を引いた金額が中央銀行の利益です。
それが市中銀行に貸し付ける上でのとりあえずの裏付けとできるのでしょう‥
 細かくはわかりませんが、中央銀行にも信用創造が課せられているとすれば、国債の発行額から得た利益が、国際的な準備額の一部として勘定立てられていることになるのだと思われます。
 反対から見れば、中央銀行が自国の国債を引き受けたままにあることは、準備額増強に向けた裏付けが担保されないという仕組みになりそうです。
そこには、BISからの外貨との取り決めが絡んでいるように思われます。


 一方で、事情を知らされていない経済観から見たとき、金融不況の緊急時によく中央銀行が市中銀行の持つ所有国債を買い戻すという「金融オペレーション」をしています。その実態は明らかに中央銀行による未償還国債の再引き受けにあると考えます。
 普段からそのような売買を金融調整の一環として市場までこしらえてやられておるようですが、それはまるで、市中銀行から中央銀行に合法的に貢いでいるような仕組みにあるように思われます。
なぜなら、資本主義の原理の中で、無償で資金の流通が成り立つような仕組みがあるとは思えないからです。その根拠として中央銀行が民間の株式会社にあることが挙げられます。
 また、最近では企業の発行するCPなるものを、中央銀行が買い取ると言うよくわからないやり取りがあるようですが、それはそれでなんだか知らないうちに、大手企業にのみ社債・株式以外の債券発行ルールが認可されている仕組みができているように映るのです。
 それで、全体の支えになるのであれば、よろしいのかも知れませんが、結局の所そこにあるのは格差の象徴です。BIS様日銀様という上から順にある図式だけだと思います。

 そして、借金の肩にある国債を買い戻すような前提には、債権の放棄がなければ辻褄の合わない所のはずです。昔で言えば人質に置き換えられます。人質を釈放する意味を考えてもそう言うことだと思います。
 それでも資本家の論理で、景気が良くなるまでの執行猶予が暗黙の了解にあるかのような金融オペレーションは、人質流しの買い戻しに相当するような事情です。
お金という論理がどうあれ、ふざけていると思います。
 そこにある精神は民主主義ではありません。何をどう考えても封建社会そのものだと思います。それもかなり非道の部類に入るように思われます。
ついでながら、さらなる国債発行の姿を昔にたとえるならば、生け贄に相当するような気も致します。そんな生け贄を売買しているような姿に思えるのです。
 どちらにせよ、中央銀行ゆえの後始末は中央銀行がとるべきです。
その存在の裏付けとなってきた紙幣発行権の在り方を国民の前に差しだして、腹を割るべきです。

 国家が国債を放棄すれば国家の信用を失う所ですが、中央銀行が国債の債権を放棄し、すべての金融機能を行政に移管・返還するのであれば、どうでしょう?
 国家が通貨発行権を国民主権の立場から直接管轄に移すのだという辻褄を公にし、国民からの同意があれば、単純な国債のデフォルトとはまた違った意味で、性質を改めた政策を実行することで信の成り立つように思う次第です。

 国民主権です。国民主権発行です。
どこまでも国民主権としてそうあるべきだと思います。
 国民の生活の安心安全のために国家が通貨発行・金融調整のあり方を改革し、保障し、国家の権威の元に通貨を発行行使すれば、赤字ではなく黒字であるはずです。
 その時、そこにあるべきは銀行への信用創造ではなく、国民生活への保障創造であるべき事です。国民すべてに公平なる視点からの保障創造がなされるべきなのです。そう思います。
そしてその時、金利や税金の類を無用の遺物として論ぜられてもなんら不思議ではありません。それが、銀行業が行政に吸収されるという事だと理解します。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 11:35 | Comment(0) | 国債 | 更新情報をチェックする

2009年11月20日

発行と裏付けと国民意識

 銀行管理に依存してきた通貨発行のメカニズムには、三角貿易に見られる西洋商人の強欲な精神が到る処に渦巻いています。国民主権とは名ばかりで、国家・行政の借金は銀行からの借り入れとし、その支払いとなる国民の血税は銀行への返済でしかあれていません。
 そして通貨発行の管理人たちの目には、民衆=消費者=家畜という風にしか映っていないのです。また通貨発行の管理人=資本家なのです。
 一見、何も問題のないように思われてしまう公債発行の理解ですが、そんな呑気な理解こそ、儲け主義の術中にはまってしまった清さゆえの不幸と言ったところでしょう。
 それはまた、フランス革命以来、民衆が急激に教養を身につけてきたとは言え、人権意識の低さ、否、一体感の乏しさゆえでした。

 なぜ、国債が通貨の裏付けとされてきたのかといえば、国家の名義で貸し借りできれば取りっぱぐれが発生しませんし、返せなければ、国家を経営する権利は銀行にこそあるという仕組みに貶めることが可能だからです。
 つまり、事実上国家の通貨発行権を担っていたのは政府ではなく、銀行の銀行の銀行の管理者(一族)だったわけです。
 ちなみに、金本位制という元来からあるもっともらしい通貨の裏付けは、闇組織の顔なじみ同士でのみ通用させて来た裏付けルールにあったとも考えられます。

 すべては、どこまでも儲けを独り占めにしたい商人らしい発想にあると思いますが、そんな発行権にこだわってきた彼らにもなぜか、独特なポリシーがあるのだそうです。
 何が何でも、搾取するが如く儲けたお金だけを利益とし合うのだそうです。
ふつうに発行権が手中にあるのであれば、自分のためだけに発行すれば良いところをそうはしていないようなのです。そのような場合でもあくまで、脅しのための道具として発行権利をふるっているふうに聞き及びます。
 そして操って、意のままになるのを楽しむかのように儲けて行くのです。
性格がネジれていると申せばそのままですが、凡人がまき散らすかのように湯水のように使ってしまうお金に対する意識とはまるで異なり、儲けるためだけに向けられたどん欲な強欲さには、ただただ驚かされるばかりで声も失います。

 それもこれも、自分たちが発行できるお金でさえ、裏付けがないと商売(マネーゲーム)にならないという‥商人ならではの、真っ当な習性からだと思われます。
むしろその商人としてのケジメさが秩序を見いだし、如何にも経済論という何かが、人間の活動に影響を与えているかのように見せかけて来たのだと私などは思うのです。
 語られる処では、フランス革命に至る処からすべてが闇商人の方針に基づいていたと言うのですから、歴史上の識者の正義も博愛もあったもんじゃありません。
 王政から国民主権という展開にしても、商人の儲け主義の都合だったと言われては、あまりにも哀しすぎます。そちらの方が儲かるから‥貴族相手だけの経済枠を破壊して、王政からの脱却を民衆に与えたのだそうです。
 まずは貴族ばかりにいい顔をしてたっぷりと貸付、赤字財政に貶め、国民から税を搾取させ、スキャンダラスを流し、民衆を煽り、街では息の掛かった思想家を使って無知な大衆に理想を吹聴して焚きつけた‥
 たしかになんとなく経済不況の度に繰り返されてきた流れそのものです。
貸し付けることができたのも、その手の商人達の結束があったからとすれば、とんでもない野心に悪知恵に行動力です。
 どこまでが実際に本当なのかを知り尽くせるものではありませんけどね。


 それはそれとして、我々は改めて、国民主権の視野に則った通貨発行のあり方を考えなければならないのです。そのとき闇商人のように裏付けを何かに求める行為に意味はありません。トリックを知れば、誰しもがそう理解されるでしょう。
 そもそも、中世貨幣の裏付けの代表として存在してきたGOLDは、今やメッキ加工の必須資源です。裏付けとしての機能性を期待できるほどに産出量が得られないのであれば、裏付けの価値を現物に求める事自体が無意味です。そう思います。
 比較として述べておくならば、国民生活の自給自足が適うのならば、その健全な流通の分だけの発行は十分に検討されるべきだろうという考えだけです。
それでさえ、食料は消費されて新たな生産を求められるのに、お金の消費はそのままで、使っても使わなくても誰かの蓄えとなるのです。
 まるで、メタボではありませんか。
その上、たっぷり付いてしまった脂肪を急激なダイエットでもしてそぎ落とせば、脂肪を覆っていた皮膚が弛むなどの醜さを残すのです。デフォルトそのものです。

 冗談はさておき、たしかな裏付けとして申し述べられる視点が一つだけございます。
それは、生きとし生けるすべての生物が継続して存続可能であれることを、発行方針の柱とすることです。
 すべての人類が、ある一つの方向に意識を向けることこそ裏付けになると考えます。
否、そうなるように意識が向くように教育を変え、そのように共生してゆくべきです。
 事実、いやしくも資本主義のグローバル化という形で前例が存在しているのです。
知らぬままに人類が一丸となって突き進んできた痕跡がそれにあたります。
創造と破壊は同義と言うは易く行うは全然違います。
 たしかに創造への困難はあるでしょう。創造の方が道のりが果てしないからです。
そして、最後まで破壊し尽くす未来を誰も意図してなどおりません。それはまた完成なき道を進むことに同義です。

 一方で、理想を掲げて人類の活動のための発行をすることは、そのままに人間の活動に一定の制限をもたらす定義でもあります。
それはまた、野生の生態系があるがままの自然である方が良いと知りつつも、人間と共に生きることの申し入れを、自然界に程度要求している見解でもあります。
 そうでなければ、まだまだ意識調整の必要な民族同士のわだかまりや技術相互に対処して行くには難しいと思われます。
 ただはっきりしていることは、何でもかんでも取引をして取り寄せあえば成り立つと考えるのではなく、可能な限り自給自足の立場をお互いに了承し、足りないところは補い合うという精神をモットーとすべきに思います。
 当たり前な事ですが、日本人ほどに世界はそうは思っていないように思われます。まだまだ甘い汁をすすりたいという思惑が世界には渦巻いているのだと思います。
慣れ親しんだ経済のあり方を踏襲したい欲求も根強いと思います。
ならばこそ、どこかの国がお手本を見せるべきだと思います。

 日本人ほどに資源もなく精神環境だけに恵まれた国民性もありますまい。
ゆえの賢さ、ゆえのしたたかさを身につけている民族など世界から見れば稀なのです。
もっと誇って良いと思います。輸入などなくともできるのだと示すことができれば、世界が手を取り合うことにもっと希望を見いだせる事になるのですから‥。
 江戸の人たちにできて、現代の人同士でできないわけがない。
その原点こそ、発行権とどう向き合って行くかだと思います。
江戸の世でも、年貢というシステムだけでは賄いきれなかったのですから。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 06:58 | Comment(0) | 発行権 | 更新情報をチェックする

2009年11月16日

発行権に伴う諸事情

 国家/地域行政ごとに発行権の行使と発行を認め合う時、そこには今までになかった疑問が生じます。それが税金から成り立ってきた財政です。
 仮に税金制度を放棄して、すべての財源を自由に発行権の行使より発行できるのだと致しましょう。
その時、それでも市民の健全な営みを案ずるのならば、人それぞれの収入をきちんと把握しておくことは、社会にもたらされてしまうかも知れない混乱の原因を知る上でもっともなじみのある習慣です。
 つまり、税を納めるという習慣の廃止を国家が採択したとしても、個人の収入に関する行政への報告は、そのまま義務づけられるという流れになるわけです。そうあるべきだと思います。

 そしてそれはそのままに、行政がどのような発行を採択しているのかを、市民が事細かに知るべき足跡にもなります。
 行政が自由に発行権から予算を創造できるのならば、それはそれで天下りのような官職に有利な採択がもたらされてしまうことが十分に予想されるからです。
 率直に申し上げれば、市場の景気はさほど良くはないのに、公務職への給与は景気に変動されることなく安定であるどころか、ボーナスまで支給されてしまうような有様の事です。いくら法に定め記されているからと言っても、納得の内容にはあたりません。血税なる言葉が死語に到ったとしても同じ事です。
 また、慎重すぎて逆を歩めば、創造的な人材が公務職に集まりにくいという禍根にも繋がり兼ねません。

 そこで単純な意見として、地域住民の総収入の%から財政の発行規模を決定するという考えが挙げられるかと思います。%であれば、1年遅れ程度で公務職の給与も確実に景気に連動することになりえます。
 ただ、この考えにはおかしな所があります。
それは、財政にその%を上回る分が求められた時、「どこから不足分の財源を確保してくるのか?」という疑問が付きまとうからです。
 借金をするための行政債を検討してしまえば、発行権の権限の行使力に何ら創造性の伴わない、従来の慣習を踏襲しかねない本末転倒な意見を想起させるだけです。
 ゆとりのある市民から寄付を募るのも一つの郷土精神のあり方ですが、言うまでもなく、地域行政でそうであるのならば、中央行政でも同じ事が問われることになります。お互いの中でしっかりした取り決め・行政方針の伝達が為されていなければ、同じ視点から同じく安易な発行だけが繰り返されてしまうだけの不経済に陥りかねません。その点において、真新しさなど何一つございません。

 一方で、行政に発行権があるのならば、自然消滅的に金貸し業務は民間から淘汰される流れに向かいます。
 なぜなら、行政がその代わりに貸付業務を兼ねたところで、市民にわざわざ利息を付けての返済を求めることに何の意味もないからです。
もともとの発行権の行使は国民主権から為るのです。行政はその窓口としての代行でしかありえません。発行権を持つ側とその管理の代表の側とで、貸し借りの関係を民間と同じ視野で検討してしまうことは実にナンセンスです。
 そこで、店を開きたいとか、事業を興したいという生活や国策に関する投資については、お互いに責任を持ってやっていただくためにも、貸した分の返済だけは最後まで求めて然りだと思います。つまり無利子負債が当然の理解です。民間の金融業が太刀打ちできる次元ではありません。
 そして、利息が発生しないのであれば、それ幸いとばかりに消費だけのために借りようとする考えの市民も溢れることでしょう。その流れは自給自足から遠ざかる考えそのものです。未来の需要を資源や技術の裏付けもなく、お気軽に消費できてしまうことには賛成致しかねます。

 ところで‥銀行にお金を借りるように行政にお金を借りる行為には、不公平が伴います。誰かれは許可されたのに自分は不許可だったなどです。
 それはそれで、なにが平等なのかを銀行の金貸し時代とはまた違った状況をもたらす事になります。多くの市民がすぐにそこに気がつくでしょう。
 あすこは支店舗がいくつもある優良企業だから借りられても、自分は駆け出しで信用も担保もないから貸すことができませんの一点張りの発想は、市民の活動を促す責任を持つ行政の姿勢ではありません。
 少し突っこんで考えても、地域に同じ業種の店舗が増えすぎれば、売上は上がりません。地域に必要な需要は常に一定です。同業店舗が増え、安売り競争をしたから、それで売上が伸び続けるわけではありません。未来の需要を先取りしただけの顛末です。時間が経てば閑古鳥が鳴くだけの話です。それが地域の需要のあり方だと思います。
 まして、消費のためだけの貸し手など存在しなくなるのです。それが発行を完全に行政の管理下に置くというあり方なのです。それが平等を織り込んだ形ゆえなのです。
 諸外国に到るまで、同じように発行権を行使するのならば同じ事です。人口が爆発し続けなければみんなで右肩上がりなどただの妄想です。その時、人口が爆発したところで土地が増えるわけでもありません。
それは一定の条件下でしか人類は繁栄できないという理解すべき足元なのです。
 また公平に、誰しもが店を一軒構えることを無条件だと考えたとしても、自分の店を持つ=自分の家を持つとする考えもあります。
どのようであれば公平にあれるのかを慎重に、かつ、地域の要望にあわせて検討し続けて行く姿勢が求められる処となるのです。

 見方はそれぞれですが、働く人のすべてが店を持つ持たないの対象ではありません。
そこからうかがえることは、借りる人と借りない人に訪れるだろう発行量格差の課題です。
 積極的に借りる借りないは自由権の中身です。民間同士での貸し借りであればそれでおしまいの話でした。
 でもこの場合は貸し手が行政だけでしかあれていない状況にあたります。そこに対する見解も求められる事になるのです。常に平等を宛がう姿勢に身を傾けるのも行政の責任と着眼です。

 一方で、お金が腐らない限り、お金はどんどん市場で膨らんで行きます。
その時、行政が妖しげな金融商品を商品化しなければならない必要性など、責任上まったく存在しないのですから、株式や現物への投機だけが過熱する可能性を残している状況にあたると思われます。
 行政としても発行し続ける仕組みに足を踏み入れる以上、何らかの形でお金の量の健全な状態を維持させる責任が問われます。
 つまり、お金や資産を腐らせる手立てが求められるのです。
「さて、どんな方法が良いのでしょうか?」
ここが最大のハードルです。国民全員が腹をくくらねば成り立ちません。
なぜなら、誰かがその損を請け負うという話になるのですから‥
今の銀行主体の発行ならば、それこそ発行公債のデフォルト騒ぎです。
新しくあれるための考えが求められるのです。

 結局は、似て非なるというのが、人智の新しさでしかありえないのだと感ずる所存です。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 05:51 | Comment(0) | 発行権 | 更新情報をチェックする

2009年11月14日

発行権の裏と表とあるべき視点

 お金を発行できるという権利を、仮に誰かという個人に委ねた場合、誰しもが子供のように意味もなく自分の欲しいモノを買うためにその力を行使しようとするでしょう。それが発行権の単純な効力です。
 そして、それに継承権のうんぬんを問えば、是が非でも略奪しようと試みる者は後を絶たないと思います。それはそうです。王家の権限そのものなのですから‥
 もっともそんな御託など関係なく、脅迫することでその権利を剥奪状態にしてしまう方が賢いあり方なのかも知れません。
自分の手に発行権の権限があることを表立って知られることなく、発行に関する責任をすべて表の責任にしておけるのならば、それに越したことはないのですから‥。

 さて、そんな発行権を、誰が管理して誰が持つべきかを論ずるには、我々人類はあまりにも経済という仕組みを知らなかったのだと思います。
 しかし国民主権としての国家体制をよくよく考えて行くのならば、そこから始めずして未来に繋がることはまずありません。発行権を放棄して、物々交換のみでやって行けるほど、我々人類は、未だ分かち合うと言うことのなんたるかを学べているとは言えない有様だと思います。

 闇に管理されてきた発行権の実際を知ることは、知れば知るほど卒倒してしまうほどの悪意と憎悪に苛む内容をもたらします。
 儲けるためだけの焦点が、ありとあらゆる人類の暮らしに仕向けられていたのです。そこにあったのは抜け目のない独り占めだけでした。参照
 そして、彼らは自分たちが発行し続けるという特権のその上で、さらに増え続けるお金の抹殺についても十分に悪知恵で先回りしていたのです。
それが資本家こそボスだという徹底した論理と姿勢です。
発行権を持つ者がすべての権限を手中に収めようとしたとき、ありとあらゆる事柄に投資を行い、貸したモノを返せと言い張っていれば、法廷において弱い立場に陥ることはまずありません。
 当然と言えば当然なことです。発行権を手にする者が、貸し手の総元締めであれば王様そのものです。みんなでその権利を認めていればそれが法なのですから‥。
もっとも、正式に人類すべてが認めたという痕跡は何一つありません。

 経済において知っておかなければならない重要なことは、その闇の王様が利息の分を民にただで発行してくれる(勘弁してくれる)ような慈悲など持ち合わせていないと言うことです。
 借金の分だけしか世の中にお金が発行されていないとなれば、環境や命を削って返すしか利息分を創造することは適いません。
 さらに誰かが儲けて貯め込めば貯め込むほど、市場に出まわるお金の総量は減る傾向に陥ります。彼らからすれば、発行し続ければ、誰かが力を付けてしまい自分たちの存在を脅かすことに繋がるのです。ほどほどの処で供給を絞り、たっぷり貸し付けてから豊かさをリセットさせるための一工夫が仕組まれるというわけです。
それが以前なら近代戦争だったのです。今なら不景気の繰り返しです。


 情報社会の昨今、日常のようになにかと利得権益の話は飛び交います。
たとえ誠意を持って、行政がお金の発行権を公平に管理・行使したところで、発行すればするほど、そこに生ずる権益は揉め事の一つであり続けてしまうでしょう。
(わかりやすく政治的な関心事の中心になったとも受け取れますけどね。)
 経済というものを今の社会のように、なんでもかんでも競争原理に委ねてしまうようであれば、そこから一皮むけて人類が分かち合うことなど夢幻なのです。

 そもそもにおいて、国家が自由競争に圧倒されて、社会にあるべき平等権・生存権が剥奪されてしまっているような状態を社会保障にあるとは呼べません。
国家がその保障の責任を果たせないのなら違憲にあることは間違えのない結果であり、今どきの政治家に見られる安全保障・財産保障の優先発言を聞くは、何か勘違いされているようにしか思えないのです。
 法の下において、もっとも優先されるべきは平等なのです。自由は二の次です。
でなければ誰が法を造り、誰が裁こうがどうでも良いのだと、自らの人権を放棄してしまっているような発言になってしまいます。
 安全だって同じです。まずは腹ごしらえからなのです。食料自給率40%の国家を今すぐ占領する価値を昔なら抱きません。100%の見事さならば、そこの土地の民は使えると抜け目なく思うかも知れませんけどね。
 そして自国が戦争状態になった時、どこの国が食料を供給してくれると言うのでしょうか?、日本人なら多くの方が関わりたくないと思っているはずです。見捨てられてもかまわないという戦術しかできていないことを了承しておるようなものです。
 また、戦争の結果、焼け野原になってしまうのであれば、どこに技術大国としての価値などその時に残っておるのでしょうか?、商業的に考えても資本家の論理しか残りません。出遅れている国に突きつけられる勉強勘定などいつものことです。
 以上、私の思う今どきの安全保障への見解でした。

 まずは、発行権における全人類的な公平性について考え、論じ合うべきに思います。基本的な生活までの不安が脅かされている最たる原因こそ、「発行権は誰の手に治まるべきか?」なのです。国民主権をそらんじるのならばなおさらでありましょうぞ。
やるべき順番など始めから決まっておるのです。
 発行権が国民の側にあり国民主権を語れるのであれば、行政が銀行に対して赤字を抱える必要はなくなるのですから‥そして金融をバックに君臨する闇もお金という餌を撒けなくなれば、根こそぎ減らせることでしょう。
 それで銀行や金融が成り立たないと意見されるのであれば、行政業務に吸収されるべき事です。
 また、そこに見られる変化は、行政と市民の間にも起こるべきして起こることです。何らかの革新が得られて当然となるでしょう。
何よりも、そこから始まる自由という事柄を我々は未だ知らないのです。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 05:00 | Comment(0) | 発行権 | 更新情報をチェックする

2009年11月11日

金相場の怪

抜粋…以前も述べたように2008年9月までに作られた米ドルは現在金本位制になっている。1ドルが金の1グラムの28分の1に裏付けされている。それ以降に米連銀が刷ったドルは金本位制ではない。またそれ以前でも詐欺的な方法で刷られたドルは金の裏付けがされていない。byBenjaminFulford

闇価格‥1ドル=金1cの1/28=0.0357142…c
金1c=28ドル
ドル100円ならば金c2800円
ドル90円ならば金c2520円
ドル80円ならば金c2240円
>>>>>>
ドル10円ならば金c280円

表価格…東京金価格(円/c)≒NY金価格÷31.1035[トロイオンス/グラム換算]×為替レート[ドル/円換算]
※1トロイオンス=31.1034768c
※おおよその目安として「NY金」価格が1ドル上昇すると「東京金」理論価格は約4円上昇し、「ドル/円」レートが1円円安に動けば、約19円上昇する。抜粋
※つまり、円高になれば東京の金価格は下落傾向を見せる。


 この情報から金相場上昇の裏側の事情を勘ぐれば、闇相場と表相場の乖離率を用いた自作自演を誰かがやらかしているもしくは操っていることが予想される。
 つまり誰かが、市場で売り抜いたGOLD(自分の手持ち分)から得た現金で、闇組織の銀行から闇価格の本位制価格でGOLDを再度引き出し(返済義務の発生する分)、それをまた金市場で売るを繰り返している事になる。
その繰り返しによる差益を手にするという内容と見られる。
当然ながら、最終的にGOLDを買い戻さなければ、金本位制に参加している意味はない。

 そしてこれは、GOLDを貸し出しているのが闇組織絡みであれば、借りて市場にて換金する方も闇組織絡みであり、何らかの利害を競っているものと思われる。
 すると貸している側も甘い汁をすするための手立てがなければ辻褄が合わない。
なにしろGOLDの買い手が市場に発生し続けなければ、この芝居は成り立たないからだ。

 その時、GOLDの引き出し手に対して、現物での返済が義務づけられているとすれば、金相場上昇後に買い集める必要がどこかで生ずることになる。株の空売りのように安くなってから買い漁りたいところだろうが、金の現物を買い集めるのはクズ株のようにはうまく行かないだろう。
 すると、後々的に暴落を恐れて、一気に売りに来てくれる勢力を準備立てておく必要性を想起させる。そうでなければ無意味だ。
 そこで、発行権が手元にあればこんな商売が定番となる。

 引き出されたGOLDに対して、同額の紙幣を同時に発行する。紙幣と言ってもそれは名ばかりで、通貨としての一時的な貸付枠の発生を意味する。
 そして、GOLDの上昇とともに、現金の借り手も増加するだろう。
そんな現金を借りた側はそのお金でGOLDを買うことになる。一方で、大量に保有している国家レベルでの話なら、はねあがる金相場を担保に何かと動き出すだろう。
 時と共に、GOLDを操っている大元にだってGOLD保有量の限界が伴う。
だからそんな借り手が多くなり出せば、GOLDと現金の双方に高い金利や手数料をふっかけるなりしてブレーキを入れ続ける必要に迫られるはずだ。
(※なにしろ他人様に自分たちよりおいしい思いをされても困るのである。でなければ発行権の独り占めの意味がない。)
 それがバブルの弾ける瞬間までの段取りだ‥と思う。
芝居の最終段階にでもなれば、GOLDを進んで売っていた側は危険を察知して、今度は買い手に回るそぶりを見せ始めるだろう。もちろん一気に買いに行く必要はない。周り全体が売り気配に転ずるのを十分に見計らっているはずだ。
でないと自分の貯め込んだ資金を早々に放出してしまい損になるか儲けが減る。
 そしてできれば、闇ルートより値下がりしてくれれば、なおすばらしいと思っていることだろう。

 通常ならばそれで十分そそられる話ではある。しかし今現在のドルの事情は怪しすぎる。そこで、これらの妄想を前提に現在のドルの立場を鑑みればこうなる‥

 今現在の状況で一気にドルが崩壊してしまえばしてしまったらで、闇組織銀行の手持ちのGOLDも目減りしてしまうか、スッテンテンになりかねないと想像される。
 なにしろ、売り手が一気に不在になってしまうからだ。GOLDをキッチリ保管してあれば動じる必要はないかも知れないが、GOLDを操り、動かしている最中であれば、目も当てられないのではなかろうか‥まぁそんな想像も成り立つ‥かと思う。

 もう一つに、売りから買いに転ずる頃合いにあり、かつ、いつでもドルの下落大歓迎の段階にあるのならば、円の仕込みもきっちり為されていたと見るべきだろう。
そうであれば、円高の最高値更新を頃合いに、東京での金相場の低迷が収まって行く現象が見られると予想が立つ。ただしどこが最高値になるかなんて知るよしもない。

 もう一つは、先のバブル崩壊に巻き込まれたUSBあたりが手持ちのGOLDを大量処分の真っ最中にあるだけだったりして‥それにつけ込んだ芝居が加わっていたとしたらぞっとするね。片っ端から買っているのが中国とか‥?

 どちらにしても、ど素人の私が正解など知るよしもない。あしからず。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 23:30 | Comment(0) | 中国読み | 更新情報をチェックする

2009年11月10日

発行権は地域行政単位も可とするべし

 通貨の発行権を憲法上、国権の管轄にあると定め記しておきながら、中央銀行の管理に委ね、銀行からの借金の形を形成し、利息を付けて国民に税金から支払わせるというあり方は、国民主権を欺いた明らかな憲法違反・詐欺・税金横領の多罪拡散行為です。
 この内情の詳細については、あべよしひろ氏の執筆に譲ります。

 そこで単純に、政府自らが発行権を掌握したと致しましょう。
まず、すべての国債を政府通貨に置き換えれば、返済の問題は一気に解決できるかも知れません。
 それでも膨らみ続ける医療費への支払い財源を闇雲に政府発行で済ましてしまえば、それはそれで、軍事費の自由化のような足どりに等しい結果をもたらすやも知れません。
 それ以前に中央集権・中央主導だけの通貨発行権限でしかないとあれば、なにかと行き届かない都市部と地方部との政策格差に国民生活の安心が磔にされかねません。
 本来、食料生産自給率40%程度の国家に余裕など、足元からないのですから‥
それでも技術だけなら世界一というアンバランスの国が日本です。バランスを取り戻すためにも適材適所で発行権を行使できるようにするべきと思います。

 率直に論点を申し上げれば、市町村行政/単位での発行権を行使するのか、それとも昔のような藩を基軸としたような都市/単位にあらためて発行権を行使して行くのかという選択が求められると思われます。
 県という単位に対する私の見解は、行政を執り行うためにあると言うよりは、選挙のためでしかないように思えてしかたがありません。
 その点、藩という単位には歴史にゆかりが深く、地域住民からの賛同が得られやすいように思われます。(※ここはある意味、私の憶測でしかありません。)
 また、経済性という意味では、昔ながらの藩単位だけでは、不十分にあると思われます。そう言う意味では、あらためて都市の単位範囲を問い直すべきだと感じます。
それもすべて、発行権の権利行使が地域行政単位であるとすればこそです。

「それでは、国家枠の通貨単位と地域行政枠の通貨単位は、どうなるのでしょうか?」

 最近では、EUを見習った東アジア共同体構想があるようですが、諸外国と通貨単位までを共にする姿勢は、そのままに発行権に対する意思を周りに委ねてしまうのと同じです。そこまでの共同体姿勢は有り得ないのが発行権からの視点です。
 通貨の単位を共通にしてしまうよりはまず、その前の段階として、為替1:1を取り入れるべきに思います。
 さすれば、発行権の管轄はお互いの手にそれぞれ委ねられ、関係国同士の経済事情から、お互いの発行のあり方を協議すればよろしいように感じます。

 その線から述べるならば、国家の通貨単位はあくまで民族通貨の象徴として扱われるべきであり、地域行政ごとに通貨単位を異にするのではなく、発行単位の称は国家の権限として総べ、発行量のバラツキが地域毎に生じてもそれは地域毎の政策ゆえにあるとして捉えるべき事です。
 例えば、国家として共通した発行が、給付金のように国民に等しくもたらされるべきであるとされれば、その発行権の行使は国家にあり、発行口は地域行政にあるとして取り組まれるべきとなります。

 ゆえに、発行権に基づいた全人類的な貨幣価値の平等視野とは、
{諸外国:自国:地域行政}={1:1:1}であるべきなのです。

 もちろんこの理解からは、対外的な非政府勢力でさえも自分たちの人権うんぬんを掲げて発行権を行使できることに繋がります。しかしそのような発行通貨を受け入れるべきかどうかは国策です。自立国家と地域行政の発行権限とに行使力の差があるとすればそこになるでしょう。
 そしてそれは、国内的な民族独立運動を指示するしないにも当てはまります。そう言う意味でも、民族枠での行政権と発行権を認めつつ、属するべき所は属す姿勢としての通貨単位の共有、象徴なのだと考えます。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 21:47 | Comment(0) | 発行権 | 更新情報をチェックする

2009年11月09日

発行権の独占を独禁法違反で訴えよう

 紙幣発行権の独占とその裏情報の暴露については、Benjamin_Fulford氏が今も精力的に行われています。といっても、闇金融の情報を逐一コンタクトしているがために、何かと要らぬ誤解の絶えない方でもあります。
 私個人的にも、白黒付けがたい一面を感じております。
なにしろ、情報にどん欲な彼のスタンスは、共有するべきことは共有して、闇も表もお互いに仲良くやって行くのがよろしいという考えをトコトン実践しておられます。
 ある意味感服すべきことですが、闇を闇のままにしたままの姿勢のそこに改革はあるのか?という疑問も生じます。まぁそれはそれ、命がけですから余計な刺激を試みる言動がタブーなのも承知です。ジャーナリストのどん欲さとしてはもっとも不可欠な要素なのでそこはさておき、私の彼の見方は彼のそれと同じです。
 情報として使えるか使えないかはトコトン調べてみないとわからない。ゆえにどのような人物との面会をも臆さない。だからこそ、私のベンジャミンフルフォード氏を見る目も、使えそうな情報にはトコトンつき合うが、あくまで参考の枠からはみ出ることはない‥と言うことです。
 そして、他者から見れば、私の言論もそれに当てはまる範疇にあると思われます。

 最近は自給自足に裏打ちさせた生存権通貨の概念にしても、人口の増大性と一人あたりの食生産有効土地比率の減衰という反比例現象の予測からもたらされる矛盾にたどり着き、このアイデアを実践させてみた所でせいぜい百年の計にしかならないことを理解してから煮詰まっております。
 ブログタイトルを変えてみた処で特に新しいアイデアが湧いてきたわけでもありません。

 それでも発行権が市民の権利から逸脱したところにあるのは、国民主権に反しており、人権尊重を放棄してしまっている形でしかありません。
 そんな現実を知ってしまえば、何を努力してみたところで焼け石に水です。
二度手間の嫌いなBravoBabyは気になって気になって仕方がないのです。

 そこで、ふと気がついたのです。
特定の市場が一企業の手のひらに乗り始めると、独占禁止法とすぐに指摘される昨今、「発行権の独占も同じではないのか?」‥そうなひらめきが舞い降りました。
 しかも、独占を押し進めるために世界に対して戦争までしかけている‥多重犯罪の極みです。その発行権を根城に、世界中の大手企業を資本家の論理で、手を変え、名を変えて牛耳っていると聞きますから、悪知恵も極まりでほとほと圧巻です。

 つまり、この一極化を切り崩すには、発行権の市民性を取り戻すことが大前提です。
どこまで行っても闇が付きまとうような論理は心外なのです。一極化が悪なら、それはそのままに改正の対象です。それが我々の知る民主政治だと思います。
 そして、紙幣発行権の世界的な独占状況を独禁法違反で訴えるにしても、資本家の論理はどこまで行っても、否定されるべき要素にはなり得ません。
ゆえに、次なるステップの提示がなされない限り同じことの繰り返しでもあります。

 ですから、誰かがフェアーな視点からズバッと「こうであろう‥」と指摘してくれる見解が必要なのだと感じております。誰もが論ずるように、無理だと思ったらそこまでです。
 しかし、恐れおののいて誰もそこまで突っ込んで試行錯誤してはおられないようなので、てめえで勉強するしかありません。日々刮目です。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 13:20 | Comment(0) | 発行権 | 更新情報をチェックする