2009年12月14日

粒式と給与と罰則的作業

 粒式では{経営者=社員=出資者}を前提と述べましたが、こういう意見をそのままに給与も均等のように思われても困ります。
 経営には、経営の自由がモラルの範囲で確立しているわけですから、各々の会社が自分たちの流儀にあったやり方を模索すればよいと思います。
カンブリア宮殿で紹介されていたメガネ21の経営はとても参考になると思います。

 しかしながら、個人的にはこう思っております。
眼鏡屋という立場は、メガネを掛ける人が多いからこそ成り立つ商売です。メガネを掛けない時代が再来すれば、嫌でも倒産の憂き目に出会います。
メガネ21の場合は店舗ごとに独立している立場ですのでその点柔軟性は望めると思います。
一方で、メガネ21に見られる店舗間同士の貸借構造では、どう考えても決定的な危機に対して柔軟性が望めません。
その辺りメガネ21の方々はどう感じておられるのか‥そこは不明です。

 そこを踏まえて粒式を当てはめてみますと、内部で生じている現象は、粒式金額の持ち合いだけです。行政銀行からの借率を個人に課したとしても、元金を社員で割った平均額を基準とすれば、「もっと出資して下さいね」「私は出資過ぎみたいですので誰か引き受けてくれませんか?」という中身ですっきり出来ます。
 売上が減りつづけても、借率1倍以内であれば、経営資金が底を付いただけの状況です。粒式を積みますか、早々に行政に出向いて支援(罰則的作業)を求めるかはそれぞれです。
 そして、行政を頼ってばかりでは、民間経営とは言えなくなります。
そのような場合にあれば、いっそうのこと行政機関に組み込まれてしまった方が宜しいのかも知れません。
 このとき、罰則的作業を嫌えば、行政銀行から事実上の借金をすることになります。
それはそれで、行政銀行が出資をする形になりますから、そちらの方から担当者が出向いてあれこれ言われる形になります。その時、行政銀行側が外から助っ人を捜してくるのも普通に見られる形です。それもまた然りです。
 ただし、事実上の借金が膨らみ続けたり、はじめから粒式資本が大きかった場合などは、そうそうに行政支援を求めた方が無難です。
なにしろ借金の返済=無給・減給を意味します。結局は同じ事なのです。

 では行政はどのような罰則的作業を与えればよいのでしょうか?

 ここはもうアイデア次第です。行政が普段やれない事はたくさんあります。
耕作放棄地の手入れであるとか、市民の細かな意識調査をローラー作戦で行うとか、地域の清掃であるとか、行き過ぎかも知れませんが古い電化製品などの所有割合の調査を兼ねた点検修理もしくは回収であるとか‥です。
 地域により細かな要望は異なります。考え方としては、事故や事件を未然に防止するためのケアを中心にすれば宜しいかと思われます。
あとは歴史的な記録を残すための文化的な調査も、行政が積極的に資金を投入しない部類です。
 そういう地域性の存在意義を見つける方向に人材をうまく活用するのも一つです。
ただ、一度に依頼することはたぶん不可能です。
ですから年間契約で、行政付きの依頼を無償で引き受けてもらうという形が適当のように思われます。そうすることで、何年間耐え忍べば、粒式が回復するとの算段も成り立ちます。それはそれで行政側も同じです。無駄に会計討議を繰り返す必要がなくなりますから、市民にも理解が得られやすいと考えます。
 また、気候変動による災害等に見舞われた場合などの協力を、行政側があてにして織り込めば、行政側の行う防災訓練等の活動への参加を要請することもありえそうです。そうであるならば、当然、現場戦力への投入もあり得る話です。
 こんな中身であれば、貧乏くじを引く所もあれば、まったく依頼が発生しなかったなども考えられますが、そこは公平に検討され、粒式を回復させることを認めると同時に再度依頼の更新を求める、過度に思われる作業分に対しての報酬を支払うなどを行政が判断するべき点です。


 次回は大きな事業規模に対する資金繰りの場合です。
何が一番お金が掛かるかと言えば、工場建設と研究開発費です。
粒式が当てはまるのは誰がどう考えても、中小経営に対してだけです。
大きな方も何とかしなければ宇宙時代には対応できません。
 あまり長すぎてもウケが悪いので今回はこの辺で‥
posted by 木田舎滝ゆる里 at 17:31 | Comment(0) | 腐るお金 | 更新情報をチェックする

2009年12月13日

腐るお金と株式改め粒式…その3

 腐るお金から粒式を見たとき、腐るお金は粒式にすることでタイムカウントから免れます。するとそこには腐らないという保障と同時に、一旦粒式にした資金を安易に現金化してしまえようでも、腐るお金としての論理が成り立たないことをその条件に見いだします。
 そこで、年金に見られる老後資金として?歳以上になると行政銀行で手続きすれば、月々決まった額で現金にすることができるなどをルール付けたとすればどうでしょう。
あとは、大きな医療費の支払いに充てられるとか、腐るお金のままでは為替は成り立ちませんから海外旅行の資金に切り崩せるとかが考えられます。
 形としては意外にも、容易に買い物が出来なくなることで腐ったお金を演出させる事が成り立つのです。

 お金が、腐るお金のデジタル管理に置かれれば、会社の売上金にしろ内部留保にしろ、手立てがなければそのまま腐ってしまいます。そこで、会社の手持ち資金は、すべて粒式もしくはみなし粒式にして管理できればと考えてもおかしくありません。

 社員にしてもその感覚は共に同じです。いちいち消費するよりもお気楽に蓄財できればそれに越したことはありません。仕事に忙しい時期であれば常にそう考えられるはずです。それが腐るお金からもたらされる選択肢なのです。
 そこで社員も会社に出資することは当たり前の価値観に到ります。自分の粒式保有額が社内での発言権に比例します。どこまでそう考えるかはその会社の空気次第です。
会社に持ち寄られた粒式は、社員の個人名義でもあり、会社名義にあたる資金です。
 ゆえに会社としても、社員がマンションを買いたいからと安易に分離できるなど、現金化が可能でも意味はありません。
ただし、その代わりに社員同士で引き受け合えれば現金化は程度可能です。その辺は会社によりけりで宜しいと思います。
 また、粒式応募も定額積み立てを求めるもよし、各自の裁量に委ねてもよし、両方をうまく取り入れるのもよしです。デジタルであれば、放っておいても売上をこぞって粒式にしてしまう習慣も成り立ちますが、アナログであればそう言う話です。

 一方で、退職もしくは退社するとき、行政銀行に出向いて手続きすることで、自分の裁量で現金化できれば、粒式はそのままに年金だけでなく退職金に様変わりすることになります。
行政銀行に出向く必要性は、自分の粒式が会社の資本枠から分離したという手続きが求められるからです。

 分離した後で、全額を切り崩すかどうかは個人の人生設計に寄りますが、再就職するに辺り、粒式がまるでないとなると相手にされないなど、バツの悪い状況を嫌うなら、結局は使わないという考えもありえます。
老後資金と言えども、まだまだ現役と頑張れば、半分は会社に組み込んだままにして、半分は月額いくらで下ろすような扱いもありえます。簡単に考えれば、粒式貯蓄を通帳二つに分ければ成り立つ話です。
 この辺は国民性が色濃く出る部分です。日本人以外には成り立ちにくい要素に思われます。
その流れとして、子供でも貯金するなら粒式でという考えもありえます。
一般の粒式預金に対する見解として、何年間は引き出せないなどの契約を行政銀行と取り交わせば定期預金の扱いです。ここはお金がデジタルであれば、普通に貯金していてはタイムカウントに晒されますから使い分けることになります。アナログであれば、気の向いたままにです。
 そして、生存権通貨が共にあればどちらを選ぶかです。
粒式を貯め込むだけ貯め込んで、会社で見栄を張るも由、そんなの関係ねぇと片っ端から散在して、生存権通貨の方を貯め込んでもタイムカウントから免れます。
 女性であれば、出産後の復帰に粒式でこれだけ貯め込んでいましたと申し出れば、面接での見られ方も社会現象のレベルで変化を見せるかもしれません。
「そこに主婦の実力在り‥」と言った感じでしょうか。
逆に旦那を立てて、旦那の粒式の見栄えを良くさせるのも選択の在り方です。
 そんな事を考えれば、粒式の家族間分配、相続が成り立つべきとの見解が生じます。
それは会社経営でも同じです。粒式の持ち合いによる子会社の設立にもそれは意図されます。

 ただし、どこまで相続が可能にあれるのかを検討しておかないと、家系の蓄財でとんでもない結果がもたらされかねません。腐るはずなのに腐らないというオチです。
粒式にはそんな危うさが孕みます。

 そこで、一番手っ取り早いのは、電子管理であれば、ビットに制限を設ける事です。
RPGのお金と同じで上限を設ければ宜しいのです。
さしずめ一人あたりの最大粒式保有額は100億円とでもすれば十分に思われます。
金利の発生しない世界観ならではの感触です。
 それでも粒式にお取りつぶしが発生しないとなれば、世代を経て、次々にMAXプレイヤーが登場しかねません。
 そこで生前譲渡総額に制限を設ける・相続可能総額に制限を設けるの二点が考えられます。


 まず生前譲渡であれば、渡す側は誰に渡してもその累計総額は10億円を超えてはならない‥であればどうでしょう。
寄付のレベルでも同じ事です。
10億円以上の寄付をしたければ、事業を起業するか、プロジェクトを立てて参加しなければならないという必要条件が発生することになります。
お金だけ出せばよいと言うのが寄付の姿勢として相応しくないのであれば、十分検討に値すると考えます。
 ただし、用途が寄付・寄贈であれば、行政銀行との間で発生する貸借の概念は意味をなしません。ハコモノ概念に赤字がつきものにあればなおさらです。
 またこの時、返済が成り立たない救済の申し出に対して、粒式の減額を課すことは格差の助長にしかなりません。なぜなら、商売下手な家系は富まず、商売上手な家系はますます富むの構図です。
そしてそれが嫌なら誰しもが相談することなく隠すことを考えてしまうのです。
 つまり、申請はするものの、貸借の概念ではなく、粒式の切り崩しとして扱われるべきという話にまとまります。
アナログであれば、そのまんま自腹での出資です。粒式から出しても出さなくとも同じです。デジタルであれば手持ちは腐りますから多くは持てません。


 次に相続可能総額を10億円としてみましょう。
親族が10人いようと100人いようと粒式相続を10億円分までの相続しか認めないという内容です。
その時、対象者の粒式が経営資本に参加していた場合には、当然、会社としても高額の粒式が失われることで返済の目処が成り立たないことも考えられます。
事故や病気で、社内の高額粒式保有者が次々に亡くなってしまった場合などです。
100億円粒式保有者がいた場合であれば、{粒式の所有額≒商才}です。それはそのままに経営能力の損失を意味します。
そして会社側にも粒式の相続権があるとすれば、それを社員で分配するという流れになります。どうするべきかは、ケースバイケースになりそうな実に考え深い内容です。

 例えばこんな感じです。
MAXの粒式保有者同士が集まって、医療基金を設立した場合がそれです。遺言を残していれば全額がその法人に相続権が発生すると同時に、それが10億円分だけでしかないとなれば、行政としても余計な発行をしなければならない見解が生じます。
せっかくそこに生じている機能を損なうのも考えものです。
 また、個人が粒式を切り崩して高額な医療費を払わなくとも、粒式がほぼ上限に達してしまった保有者であれば、いくらでも出しますよと考えたとておかしくありません。
デジタルであればお金の桁上がりはそのままに無料奉仕を意味します。アナログでも上限が決められてしまえば、仕事はすべてボランティアになってしまい兼ねません。
有効利用を考えれば、様々な選択肢が浮かぶはずです。
 ただし、そんな人たちが世代を経た暁にごろごろしだし、その存在ひとり一人が束にでもなれば発行権を行使する行政存在そのものと変わらなくなります。それはそれで考えものなのです。

 一方で、粒式相続?億円を超える相続を受けた者は20歳を迎えた時点で生存権通貨からの給付を一時停止、状況により再給付を可とするような見解もありえそうです。
それはまた粒式所有額?億円を超えた者にもあてはまりそうな内容です。
 使わなければ同じ事ですが、お金が完全電子化のデジタルであれば普段の所持金は腐りますからそこまで目くじらを立てなくとも良いと思われますが、普通にアナログなお金であれば、それはそれで、角が立つというのが世間の感覚にあると考えればこそです。

 そして何よりも、アナログであれば、粒式にしなくとも大富豪であればその財産は加算されて行きます。その相続をどうするのかがこれまた難問です。
相続を受けた側が早々に粒式以外の財を粒式に置き換えてしまえば同じ事です。
 するとアナログの場合には、強引に、粒式でない資金を見なし粒式として扱い、見なし粒式の10億円分が親族相続、経営資本に置かれていた粒式が会社側に‥と言った仕切り分けもありえそうです。
 ここで、例えばな話です。
ご高齢にあった大富豪さんがたまたま新設したばかりの子会社の方に出向いていて、2〜3年はそっちにかかりきりになるつもりで粒式までを持ち出していたとします。ところがそのまま他界してしまった場合はどうでしょう?
子会社側にのみ粒式相続が発生したとあれば、親会社としてはちょっと待ったを持ちかけたくなるケースです。
でも親会社が大手であれば5億10億にムキになるとも思えません。しかし、子会社の社員数が少なくて、その粒式所有平均が親会社の平均を上回るような話ともなれば、親会社の社員たちは「ありえねぇー」と叫びたくなるかも知れませんね。


 ちなみに、それでどれだけの粒式保有抑制の効果を望めるかはわかりません。
ただはっきりしていることは、競争の結果、黒字あればその裏に赤字あり‥と言うことです。その確率は、粒式の貯蓄率と通貨発行量の度合いで予想が立ちます。
金利が発生せずとも、誰かが貯め込めば、どこかは赤字なのです。
 すると罰則作業がその確率で必ず発生します。
ゆえに行政が発行をケチれば、罰則の発生する確率分だけ無償で公の作業をしていただけるサイクルが発生し、大判振る舞いをするだけであれば、誰も行政業務に関心を抱かないサイクルが発生するわけです。どのような塩梅であれば国民のモチベーションが維持され続けるのか‥それはやってみなければわかりません。

 残す所は、次回に回します。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 17:05 | Comment(0) | 腐るお金 | 更新情報をチェックする

2009年12月12日

腐るお金と株式改め粒式…その2

 先に結論を申し上げておきます。
粒式の概念を検討した結果、粒式の概念はアナログでも成り立つという内容です。
 そして、生存権通貨の概念に在り続けていた電子弊という発想すらも無用に至らしめます。国民主権発行で等しく給付すればするほどお金が溢れてしまうのに、なぜか溢れません。

 では粒式について述べてみます。

 粒式の概念には民主主義が導入されています。
資本主義の概念は論外になります。そのため、粒式を取り入れれば、株式市場は魅力を失います。誰が魅力を失うのかと言えば、経営側の立場から見た場合です。

 資本主義の論理はこうです。
仮に大手企業が1000億円の融資を求めて社債を発行したとします。
利息が3%なら、1030億円を期日までに用意できなければ償還が成り立ちません。
その時、社債を全額引き受けたのがたった一人の大富豪だったとすればどうでしょう。
 期日までに売り上げた利益が1100億円であったのなら、会社の儲けは70億円、社債の利息分は30億円です。社員が700人であったのなら、分け前の比率は7:3なのに1千万:30億です。300倍の開きが生じます。
当然、株主からも配当を求められれば、社員の取り分はどんどん減ります。
 実際にこのような差があるかどうかは知りえませんが、たとえ3%という低めの金利を提示していても、そこに関わった人間の数を織り込んで考えた場合、資本家の論理、即ち、お金で利益を得る数字マジックは暴力的にしか映りません。
 それはまた、国の富の25%を1%の人間で動かしているのであれば、同じ事です。

 民主主義であればこうなります。
外からの融資は原則会社内では御法度です。基本は内部留保で賄うべきとなります。
つまり商売で得た売上からの運用です。しかし内部留保の名義が、会社名義でしかあれないのであれば民主主義とは呼べません。
 かと言って、気前よく社員に全て分配してしまえば、会社に出資してくれるかどうかは不明です。
そもそも、社内での貸借的な運用では、経営がうまく行っていることが前提条件です。
社員が健康にあり続けることもその一つです。
社内間だけの資金運用に問題点があるとすれば、経営が赤字に陥れば、あっという間にドミノ式に凍り付いてしまう点に尽きます。
言うまでもなく、共同出資関係にあるとの理解がなければ成り立ちません。
それは損するも一緒の見解です。
 一方で、外からの借入れを嫌って禁則扱いにしてばかりであっても、{売上が少ない=機動力に乏しい=才覚がない=仕事をするな}の構造となってしまいます。
立場が弱ければそうなるのです。それはそれで民主活動の妨げになりかねません。

 そこで株式が考えられますが、共同資金の株式から切り崩せば、額面がどうあれ手持ち資金は減ります。この辺りの仕組みが曖昧でわかりづらいのが株式です。
考えられる事は、額面を担保に銀行から借入れているのか、引下ろしてくるだけに思われます。
 すると払い戻すか、売上から入れ直さなければ額面は保障されない事になります。
もしくは額面を定めずに売れば、引き受け手の買った値段が新たな会社の経営資金と見なされ、同時に株主権限が交代するという中身になってきます。新たに引き受けた人のお金が新たな資金源です。
 しかし極端なことを言えば、中身が0円の株券をわざわざ1万円で買う人はおりません。もしそのようなことが可能なら、株主人数を限定することが可能です。
 そこで空になった株券を放棄して、新たに株を発行するための共同出資を同じ社員同士で出し合う事の繰り返しが共同経営の在り方に映るのです。小さい経営であればそうとしか思えません。
※その時、額面が表示されていなければ改めて株券を発行する必要はありません。

 一方で、上場株式の取引は、株主とは名ばかりのお金のやり取りが見られるだけで、実際にそれで会社が資金繰りできているようには思えません。
 新規に株式を発行したりすれば、確実に会社は資金繰りが適いますが、近年では、株式転換予約付き社債という資金繰りがされており、結局の処、株式は出資側の紙切れです。そこに見られるやり取りが資金源であるとすれば、株取引に用いられる特別口座そのもの(発行株の総額)が上場企業のみなし金庫にあると考えられます。
 つまり、時価総額以内であれば、会社側は特別口座から引き出すことが一回分は適う仕組みです。
ただし、評価総額でそっくり引き出してしまえば、株式総額は実質空っぽです。
入れ直す裏付けや動機がもたらされなければ、経営赤字は危機感に直結しますから、そうそうに引き出せるわけではありません。
そして、引き出すもしくは金融から資金調達するにしても承認が求められます。
 裏を返せば、一日二日の連騰など何の役にも立たず、かといって市場全体で上がっても、上がり続けるか、価格が維持されない限り、資金調達は不可という内容です。
 一度下がって再び上がっても、その都度発生する株価変動から総資産差額を会社側が運用できるかどうかは微妙です。
 会社側にメリットがあるとすれば、株式の値上がりをあてにして、以前に引き下ろした、もしくは、銀行から借り受けた過去の金額に対して評価差損が発生しにくくなった。それだけです。

 このような解説はたいてい素直にされていませんから、金融の隠しカラクリがあると見られます。

 この解釈がズバリにあれば、株式市場とは確信犯的な詐欺の現場にあたります。
たとえばこうです。
 株式が上がれば上がった分だけ会社側が引き出してもなんら問題になりません。それが株式だからです。もちろん承認は必要です。
一方で個人投資家は勝手気ままに売買しています。それも株式です。
 そして株式からの手付けを承認されれば、一時的に値下がりするのが辻褄というものです。承認の結果、中身は引き出されて実態が減りますから、減るのがわかっていれば誰かが大きく売るわけです。
そして、差損の発生しない時価総額の付近で買いが再び入る感覚に落ち着きます。そうでなければ株式勘定に意味はありません。※上場企業には持ち株数維持という株主権の絡みがありますが、信用取引(空売り)であれば、持ち株を維持させつつ第三者に取引させることで成り立ちます。
 そしてそれが成り立つのも銀行が持ち寄りで、役員を送り込んでいればこそです。
その時、銀行は市場から個人投資家のお金を巻き上げる形です。そうでなければ銀行にも上場企業にも旨味はありません。
 つまり、引き出した金額分を売って、思惑通りに値下がる&引き出した金額分にあたる底値圏で買い漁れれば、会社側の株式には常に実態がある裏付けが成り立ちます。
あとは経営が軌道に乗っていればさえ、値は戻るという勘定です。
そうでなければ株式に実態などあるわけがないのです。そう思います。

 そして金融側が相場で勝ち続けることは、市場デフレをもたらし、金融インフレをもたらす構図となります。また反対に、金融側が個人投資家に圧倒されるような事態に陥れば、その銘柄は銀行と組んでいる意味など空しく、実態運用のまるで成り立たないただの紙くずです。

 つまり、市場を通した売買方式は不遜な概念にしかあれない仕組みなのです。

 そこで株式と一線を画するべきにあると求められて、新たな資金調達方法が検討されるならば、売買方式は放棄されるべきに思われます。
即ち、民主主義的なルールに則って通貨発行権のあり方からその議論が問われるのです。


 さて、粒式では{経営者=社員=出資者}であることが前提です。
そもそも株式に見られる上場企業の赤字構造には、自分たちの損が首切りで済むならまだしも、第三者を巻き込み、その無責任な裏返しの証として、他人の腹をも切らせる被害拡大をもたらします。
 そのような欠陥を鵜呑みにして、安易に株の発行に走るのは経営側の哲学なき暴力です。
そこに首を突っ込む第三者も第三者にありますが、自ら出資することのない社員が首を切らないで欲しいとの一点張りなのもおかしな見解です。そう思います。
 つまり、株式では民主主義は成立しないのです。

 共同出資が前提にあれば、俺だけの首を斬るのは不遜だとの論理も100%まかり通りますし、第三者の出資にあっても、社員教育ぐらいは参加するべきとなるでしょう。
第三者たる出資だけの存在にも、火事場の協力を無償で引き受けさせるぐらいがフェアーなのです。それがコスト削減になるのであればそうするべきですし、会社にはその権限があると信じます。でなければ第三者の立場で配当をもらう資格など二の次であるべきです。
 そもそも第三者からの発想を会社側が期待するのであれば、第三者にもユニフォームを配って、経営の現場に顔を出させるべきなのです。実体が伴ってこその経営への発言であるべきです。
 企業機密との見解も絡みますが、経費削減や健全経営に確信が得られる範囲であれば、なんら問題は生じないと思います。
何よりも、社員の顔と出資者の顔を確認し合うことが肝要です。

 国民主権発行を監督する行政が、発行権を担う場合、社内留保(共同経営なら共同財産にあたる。ただし個人分配をモットーにするのならば、分配を証明できる形式が求められる。)が通帳に記載されていくような在り方があっても不思議ではありません。
 そのような通帳に記載された金額を持ち寄って、その総額を裏付けとするのが粒式です。
個人だけの権限では、安易に引き出せない預金として規律立てることで、従来に見られた預金スタイルとの違いを見いだすことが可能です。
それこそが、お金が溢れているのに、溢れないという流れを生むと予想立つのです。
粒式は共同経営ですから、粒式の溜まり具合も公平に分配される勘定です。
つまり、利益があり、引き出された金額以上に分配が発生すれば粒式が増えることになります。

 行政銀行はそれを裏付けとして無利子で資金を貸し出します。
なぜそのようにするかと言えば、安易に引き出せないことを意識付けさせるためです。
行政から借り入れたとすれば、必ず返さなければならないという意識が働きます。
 また、行政銀行に入れ直させるようにルール付ける習慣は、経営に参加しているという意味合いがお互いに高まると考えられます。
経営が行き詰まり返済の目処が立たずとも、借率が1倍を超えなければ無借金経営と同義です。
 その時、赤字続きで返済が滞ることは、預金の減額を意味しますが、粒式の場合は、発行権を管理する行政がわざわざ市民から財産をむしり取っても無意味です。国民主権発行であればなおさらです。
 そこで、経営が行き詰まり、返済の目処が成り立たなくなった‥つまり粒式が底を付き0もしくはマイナスになくなった事を理解した会社は、行政側に救済(罰則的な作業)を求めます。
 行政はその求めに応じて、無償で作業をしてもらうことができます。作業をしてもらうことで見なし返済とするのです。所謂、半民半官構造の採用です。

 見なし返済と言っても、元々は経営側の自分たちのお金ですから無借金です。
でも、元手が空なのでにっちもさっちも行かない事に変わりません。新たな出資者を募るのも手ですが、もはや手遅れにある状態と考えられます。
 そんな会社を行政が発行権をかざして安易に発行救済したところで不公平です。
すでに生活の保障が、生存権通貨に準じた発行で成り立っているとすればなおさらです。そこで、貸借分にあたる作業を行政側が無償で命じるのです。無償と言っても、作業に経費が掛かるのならば行政側も負担しなければ成り立ちません。
 無償で仕事をしてもらうことで、返済と見なし、粒式預金の全額を保障すれば、行政は無駄に予算立てを検討する必要もなく、かつ、救済会社の業務内容を活かして再建作業を指示できる仕組みです。

 その後、会社側が同じ経営を続けるか、解散するか、再編するかは会社側の判断です。
また、個別に粒式が保障されていれば、それを元手に起業することも転職するこも可能です。
退職や退社であれば、それを切り崩せるとすることで保障制度たれるのです。

 会社の経営が地域社会に貢献しているのならば、その会社への融資と成果の蓄積の累計となる粒式記録は明らかに個人の地域貢献に対する実績を示す足跡であり、名刺たれるものです。
実績を示すには、額面の加算される様が手にとってわからなければ用を為しません。
通帳のような形式であれば、一目瞭然に思われます。

 一見、それで経営が成り立つのかと、大企業ほど思ってしまうように思われますが、地域分権に地域行政を主体に置いた活動であれば、事業による天下取りは必ずしも必要ではありません。
それでも国際化の現状を鑑みれば、半導体事業のように一極化していた方が都合の良い業種も見られます。それはそれで行政が積極的に関わるなどの棲み分けは必然的に為されるべきに思われます。

 腐るお金との絡みは、次の記事にて紹介します。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 22:12 | Comment(0) | 腐るお金 | 更新情報をチェックする

2009年12月11日

腐るお金と株式改め粒式…その1

 これは、腐るお金指南1と2で述べた内容(行政に通貨発行権がある&生存権通貨並びにお金のデジタル化がなされている事を織り込んだ、使われていない月数をカウントすることで腐るお金)を土台にしています。
腐るお金指南では株式への対応意識が曖昧だったので改めて刮目です。


 闇商人の立場から見たとき、株式や資本金ってなんでしょう?
恥ずかしながら執筆している本人はその辺りがまるで理解できておりませんでした。
ゆえに、以前からお金の電子化と株式への影響に対する理解に曖昧さがあったように感じております。誠に申し訳ありません。
 資本金なり総株式の時価を前提として、それを担保に銀行が上場企業にお金を貸し出すのであれば、そこに生ずる信用創造とはこのようなものだと考えます。

「上場企業は俺のもの、しない企業は俺のものじゃないから勝手にすればいい。
その見せしめとして政府からの民間融通は常に後回しにさせてやるし、俺の持ち分への食い物として存在してくれればそれでいい‥」

 もともと大手企業の方に分があり、競争は収束します。政府資金が優先的に大手寄りに融通されたとしても、それは最終的に銀行への支払いに回ります。
 また、その上で銀行側が優先的に基幹産業に貸付けていたとすれば、それはそっくりそのまま、税金→公債→政府からの優遇策&補助金→大手企業社員の給与→家や車のローン払い→銀行の売上を意味します。
 当然ながら、株式会社とは名ばかりの中小企業にしてみれば、借入れ→金利払い→元金先送り(借換え)→不渡り発生→企業再生→資本家の利益です。
 その支援を上から順で取り付けるためにも、銀行は基幹産業の上場企業から貸付をすすめ、基幹産業は国際競争力そのものだから、最優先で政府は救済せねばならないという理屈立てが成り立つわけです。トカゲのしっぽ切りと同じです。
 と言っても、日本の企業には無借金体質な所も多いので、一概には言い切れません。
言い切れないからこそ、闇の存在を認知しない方も多いように思えます。
それでも金融が利益を求めるばかりにあるお金の流れは到ってそんな所なのです。


 資本金はどう考えても、自己資金もしくは他人から借り受けた他人資本で成り立つ中身です。そのお金を元手として裏付けるために株式に転換しておく‥起業したばかりにあれば、それそのものが手持ち資金だと理解します。
個人資産と区別する上でも、名義上の資金を区分しておくことは欠かせません。

 とは言え、株式の場合は資本金と株式総額とが別々に解釈されています。
素人目には、資本金とは何を意味するのかがまるでわからないのです。
上場すればそれに時価が発生するのですからますますチンプンカンプンです
 素人目から見た株の発行とは、細かい融資の証明でしかありません。
ですから、市場が取りなすような融資枠を発行株数で割って一口単位で買い手を募る‥というのは明らかに大口投資家を相手にした発想です。
 一方で、融資額が増えても投資する人物が常に同じで株数を増やさなければ、株が値上がりするという中身です。それはそれで「だから何?」の話です。
非上場にあれば到ってそんな感覚にあると思われます。

 そんなこんなで、資本金と株式にはなんの関連性も問えません。
問うならば、払い込まなければならないという資本金に見られる性質です。
うがった見方をすれば、起業課税です。一時預かり金と言う表現も可能ですが、売上から税金も払うのですから、それはまさしく場所代の手付け要求です。
起業を認めてあげるから、これこれこれだけ払い込みなさいの論理に思われます。
 家賃にも礼金と敷金とがありますが、その論理で言えば人質です。
昔からの人たちがそのような気質にあった名残と言ってしまえばそれまでです。
きちんとした起業への姿勢をそこに求めたとも言えるでしょう。
 ゆえに、資本金が大金にあれば、それだけの才覚がまずは求められたとなります。
借入れを前提に起業しても失敗するの論理が根付いていれば成立する中身です。
 悪意が見られるとすれば、それを如何にも難しい話にすり替えている部分になります。返す必要性がまるでなければそう言う話になってきます。預かってきた省庁はどこでしょう‥??

 このような解釈で言えば、悪事を働いた会社からは、資本金を没収するという見解があるべきに思います。そして、悪事の整理のついた後になお経営を継続させるのなら、罰則としても再び資本金を求めるといった具合です。その時、資本金群から、損害賠償請求額分を切り崩すなどをすれば、制度上の辻褄は適います。
 経営者群は一蓮托生と言うことで、違法行為をすれば、場合によっては他人の資本金?にまで迷惑が及ぶという下りがその抑止となります。
見方を変えれば、経営者間に求められる人権不遜への防止出資預かりです。
そして思うはずです。真面目にあればあるほど「ふざけるな‥」と。


 お金が腐る中身にあるとき、それらの資金までが腐るルールに置かれていては不都合です。
ところが、それを担保に銀行から何倍ものお金を借入れられる(信用創造)という話も奇妙な中身です。
 また、腐るお金であれば、壱円単位で細かく株式資本に転換できなければ成り立ちません。百円単位であれば為替にも適応できそうです。
 そもそも、お金自体に使わないでいると有効期限が短くなるを課せば、期限切れしそうな手持ち資金を、株式のような形で現物転換しておけた方が都合が宜しいのです。
 しかしながら、現在の株式ルール(一口いくらで他者から募る)ではそんなことは出来ません。そこには、新たにタイムカウントの怪しくなるお金現象から逃れたいという心理が発生するわけです。配当や値上がりを目当てにした以外の要素を織り込まなければ成り立たないように思います。
 そこで、タイムカウントのどうにも出来なくなった壱円群を金の粒に見立てて「粒式」という在り方を考えてみます。株式会社ならぬ粒式会社です。

 次回はそこにあるべきルールを問うてみたいと思います。
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2009年12月08日

腐るお金指南2…使われていない回数編

 使われていない回数をカウントするには、すべてのお金を電子弊化するしか管理のしようがありません。紙幣に正の字を書いたりして辻褄を合わせるような発想は通用しないからです。
 ゆえに指南1記事に引き続き、生存権通貨を織り込んで考えます。

 仮に、銀行預金や電子レジ、電子財布に刻まれている壱円壱円が毎月月頭の0時ちょうどに1カウントを刻むとします。そのカウントが6年目の61を指すと特別なフラグが刻まれ、それ以降はどんなに消費に使われても2年間しか有効期限が伸びないとします。
つまり85を刻むと消える仕組みです。お金としての効力を失い、月頭になると減額現象が生じるのです。
 ちなみに1回の消費で戻るカウントは6とします。
ただし一度も61を刻んでいない壱円群にカウント減の効力はないとします。

 特別な感覚として、個人の銀行口座や、電子財布・電子レジの中でカウントを整理できる操作が成り立つとします。
 操作と言っても、所持金に刻まれているカウントを全額からカウントを総計して、希望する額(壱円群)を一律なカウントに置き直す機能です。所持金のカウント総計が同じにあれば同じ事です。そうすることで、カウントが60を越えているお金とそうでないお金との均一化を図り、管理をしやすくできる仕組みです。
※管理されていない場合はカウントの大きな壱円から自動的に支払いがなされます。

 裏を返せば、収入(寿命のあるお金)があれば、整理することですべての所持金の寿命が延期できるという裏付けです。
もしくは、自ら消去清算してしまう機能として見立てる事も可能です。ネット購入での振り込み払いであれば、誰しもが試みると思われます。
 ただし、一度カウント61を刻んだ壱円は59以下に整理できず、カウント61を経ていない壱円は61以上に整理できません。
 つまり、カウント61を経ていない壱円同士とカウント61を刻んだ壱円同士との仕分けは区別され、カウント61を経た壱円同士とカウント61を経ていない壱円同士とで、カウント60を境に整理付けるという具合になる感覚です。
 当然、整理の仕方によっては、寿命が残りカウント0に縮まり、すぐに使う必要に迫られる壱円群が生じる事になります。また逆に寿命が残り60カウントにリセットされる壱円群も生じます。
 ‥という一例を前提にした腐るお金アイデアの概要です。


 さて、そんな仕組みにあるとき、人間はどんな行動を促されるのでしょうか?

 まず会社の内部留保を考えてみます。
使われていない回数をカウントすれば、放っておくと内部留保とて腐って無くなってしまいます。そういうお金の都合上でのルールです。
 一番都合のよさそうな手段に自社株買いがあります。
しかし、これはお金をやり繰りしたい個人投資家たちからしてみれば、自社株を買うのも良いが発行もせよというなんともトンチンカンな流れを意図させます。
 また、そのような売買におけるお金の塩漬けカウントを維持させるには、買った株式の一つ一つにも使われたお金の追跡が成り立つように約束事を設けておかなければ用を為しません。資本金に塩漬けカウントが発生しないのであれば、企業も投資家も貯め込む一方になるからです。
 そこで都合上、上場から五年経つ企業であれば、毎月月頭に、株式資本の60分の1を強制的に損失させるさせないの騒ぎになりそうです。
※後記事に続く…

 ポイント還元している企業であれば、こんなアイデアも考えられます。
内部留保の貯蓄をカウント整理して、有効期限2年に整理した資金を寄付とばかりにポイント会員に配るのです。ついでとばかりに会員のポイント分留保もそっくり調整して、配布したその日からすべてのポイント期限を2年としてしまうサービスが考えられるでしょう。
 経営側のお金の有効期限も延長でき、顧客サービスも成り立ち、無駄にせずに売上に繋がる‥そんな流れが生じます。
 もちろんその時、残りカウント0となる壱円群が生ずることになるわけです。
活かすには当然、現物買いが一番に顔を覗かせます。
二番はさらに寄付でしょか‥第三者へのお金での寄付が不能にあれば、やっぱり現物です。
三番は社内活用でしょうか‥どちらにしても即消費利用が求められる話です。
ボランティア活動であれば、交通費の当日支給などの裏付け予算にもできます。

 詰まる処、個人も企業もあれやこれやで現物買いやコレクションに価値観を移す流れを見せる段階から、しだいに、どこもかしこも寄付やボランティア活動への投資に移行すると思われます。
 すると、嫌でも一次産業への価値観は底上げされるでしょうし、介護の在り方もまったく異なる可能性を見いだせるでしょう。
 エネルギーこそ輸入に頼らずに地元で賄えるならば、海洋大国ほど有利です。
なぜなら、海水から鉱物資源を抽出するための大前提がエネルギー確保だからです。

 その結果、石油と国債の時代とはまた違った方向でモノが溢れ、とんと活用用途が見いだされなくなった果てに通貨バブルは一気に弾けるかも知れません。
ただし、そのとき人々は思うはずです。
「じゃ、物々交換で‥」
「それ、持って行って良いよ(笑)」
なぜならその時、生存権通貨を使わずに多くの人が貯め込んでいたのであれば、それで十分に足りるからです。貯め込んでいなくても、大多数がそうであれば同じ事です。生存権通貨に有効期限はありません。あるとすれば本人の寿命です。

 それにしても、お金が完全電子化されないとそれが為されない理解にあるのは、とても不可解な見解です。全世界がお金を手段から目的にしまっているのですから、そういう下りです。
 目的は生きること、活かすこと。お金は物々交換の手段の一つです。
それを理解するために、すべてを正確にデジタル化してまで秩序立ててやらないと賄えないのが人間であるとは、夢も希望もありませんね。
 そして、そうだけと考える考えないは人それぞれです。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 14:30 | Comment(0) | 腐るお金 | 更新情報をチェックする

腐るお金指南1…使われた回数編

 腐るお金を実現させるには、お金(通貨の単単位)に背番号を付けて、使われた回数を数えるか、使われていない回数を刻んで行くかの二通りが挙げられます。
 そして、その管理は電子技術を用いた手段でしか、今現在の人類にそれへの対応策は見あたりません‥

 さてそんな考えを前提に話を進めます。
ますは、使われた回数の場合です。

 仮に特定のレジを通した消費に対してのカウントを考えてみましょう。
なぜ特定のレジという表現になるのかと申せば、給与払いや送金等の振り込みである場合は消費ではありませんのでカウントの対象にはできないないからです。
 消費が5回なされた時点で、お金としての効力が無くなるとルール化した場合、どのような変化がもたらされるのでしょうか‥。

 単純に誰しもにある警戒感として、生活の最低保障が成り立っていなければ、受け入れることが出来ないという前提です。売り上げたお金がすべてそこで「5回目です。チーン!」を唱えたとあれば、泣き寝入りするしかないのですから‥。
 そこで電子技術のカラクリでお金が管理されていることが前提にあるのならば、電子カードを用いて国民に等しくタイマー発行&給付することも可能です。
当然ながらその時、通貨発行権を管理するのは銀行ではありません。行政です。
行政に通貨発行権があることが前提です。
 一人あたりに月額で10万円を発行給付したとします。我が国なら総額で144兆円ほどです。国債などと言う中身が成り立つような発想ではありません。
そこで、国民主権発行を掲げるのならば、その監督権は行政にあるべきです。
そのお金は予算繰りされる事に変わりはありませんが未発行状態にあります。そうすることで誰しもにカウント0の新鮮な通貨を提供できることになるわけです。
 細かく申せば、税金で回収された歳入からの予算建てではありません。
そうではなく、法で定めた上での特殊な電子カードから毎月一日になると新たに創造されるお金だと言うことです。
 私はそのような発行と給付の在り方を生存権通貨と呼んでいます。
また、それを為すための給付カードを生存権カードと呼びます。

 さてその時、個人経営の店主であれば、生存権通貨払いは大歓迎となりますが、そうでない通貨の時、使い回せる回数が不明確ですから、生存権通貨払いのみ可という経営もあり得る話です。

※ ちなみに以降から生存権通貨を未発行にあるお金としてビフォー通貨→B通貨。
一回でも消費に用いられてカウントが0にないお金をアフター通貨→A通貨と呼んでおきます。

 一方で、B通貨ばかりのお店が増えても消費者は困ります。経営者も同じです。
高額商品など特にそうです。高額商品ばかりを扱う貴金属店などは腐る効果により損失が見えないのですから経営が成り立ちません。宅地建設に到っては即卒倒です。
 そこでこういう考えも起こります。
A通貨払いは2倍、B通貨払いは通常。高額になればなるほどその倍率が上がるという支払い感覚です。今度は数がこなせないという不安定要素が重なり、それを補うためにどんな業種にも生存権通貨で消費できるような商品が意味もなく積まれているなんて想像も難くありません。
 結局、流れとしては、B通貨消費売上の割合の大きな業種が、そのようなロシアンルーレット化に置かれる業種と融合しながら存続し、生き残るしか道がない事を意味します。なにしろ、B通貨が無尽蔵に発行されるとあれば、生活小売りの勝ち組にはうなるほどにお金が集まって行くことになるからです。そういう話になると予想されるのです。
 すると皆さん、お互いにケチを了承し合うか、ケチに徹するしかありません。

 そこで、最終的な判断として、税金回収でお金を集めて消却した方が良いと思われるわけです。
しかしながら、これとて結局は回収税率以上に回収は見込めません。
インフレ対策への効果としては、回数制限の方が効率は高いと思われるに到るのです。
 しかしながら、一番重要なポイントは、栄える者ほど蓄えるお金が多く&カウントの少ないお金を持つ傾向が予想される反面、貧しきは常にカウント数の多いお金しか手に出来ずに収益格差が広がる傾向が予想されるという中身です。

 つまり、消費したカウントを数える方向では、インフレ・デフレ問題どころか金融格差問題は解消に到らない事を意味します。
 またその時、生存権通貨により貧困問題が起こらないのであれば、これらの問題が次々に先送りされてしまう危惧を否定できないのです。

 では次に、使われていない回数をカウントする方向で考えてみましょう。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 13:07 | Comment(0) | 腐るお金 | 更新情報をチェックする

2009年12月06日

発行権とBIS規制の黒い腸

 BIS規制とは、銀行の自己資本比率について取り決められた国際ルールである。
銀行間に起こりうるトラブルを未然に解消させ、国際的な通貨信用を確認し合うために設けられている。
 その存在はバーゼル銀行監督委員会に基づくとされ、中央銀行の中央銀行という立場としてスイス・バーゼルにその国際決済銀行が置かれている。
 実にもっともそうな名目を冠されているが、単純に指摘してしまえば、世界的な平和条約の類からなる公的機関ではない。また、その内容は、その昔からの大銀行家同士の取り決め(影響力)がもたらしてきた民間組織による信用則にすぎない。
 ゆえにその実態は、銀行集合構造が織りなすトラストもしくはカルテルを意味する。
世界的な企業構造に対する役割から言えば、コンツェルンと見ても言い過ぎではない。

 具体的なことを述べれば、自己資本比率8%を維持できない市中銀行は、国際取引を拒否され、銀行としての信用を大きく失うことがその中身の大きな約束事になっている。所謂、銀行組織間に要求されているノルマと言えるだろう。
 ただし、このような取り決めが具体的に為されたのは1980年代後半の事となるため、ノルマという表現が意味するものは比較的最近の金融事情にしか当てはまらないことをお断りしておく。


 民間の企業経営で言えば、自己資本比率の割合を検討されるは経営の健全度を推し量る上でも基本的なことなので、民間で決めようが公的に決めようがどちらでもかまわない見解にあたる事になる。だからそこに問題性はない。
 しかし、紙幣からなる通貨の発行権をその組織が一手に担っているとなれば、話の中身は全く違ってくるのである。
 中央銀行自らが国家紙幣を発行するのである。それはそのままに、市中銀行が自己資本としてその発行から8%以上を回収し自己資本として確保せよという中身となる。
 中央銀行の発行からしか各国通貨が供給されない仕組みにあるとき、銀行の貸し付けからなるその発行を100%とすれば、8%の倒産がそこに起こりうることを前提としている内訳だ。これは非人道的な要因となるに十分すぎる。
 リーマンショック以降、その比率を10%以上に改めようとする動きもあると聞く。
それはそれで戦争以上に残虐な判断となろう。

 ところで、これを細かく推察して行くと、すごく奇妙な疑問が生ずる。
日本の民間資産1500兆円であるならば、国内市中銀行群には、120兆円程の内部留保が無ければBIS規則違反に陥ってしまうからである。
 一体如何なる状況になっているのか‥実に不明瞭極まりない。
行員の高給取りは今に始まったことではない。その上で1500兆円は他人資本にあたるのだから、そういう摩訶不思議な解釈が起きても不思議はないのである。
※ ちなみにその昔は2000兆円と謳われていたが、911事件のツインタワー崩壊の時、500兆円分にあたる書類を消失したとかで、1500兆円に減額という中身にあると聞く。


 そもそも銀行の貸し付けは、貸し付けているお金が銀行預金から裏付けられた他人資本と見られているため、そのお金の流れはそのまま他人資本にしかならない。
しかしその実態は、中央銀行に預け入れた準備金率に基づいた発行から為されている。
そしてその準備金(担保)に自己資本や他人資本の差異は求められていない。
 貸し出せば貸し出すほどに他人資本は一時的に膨らむ性質を備える。いわば市中銀行の経営としては諸刃の刃なのだ。
 一方で、それらのお金は最終的に返さなければならない総額にもあたるため、市場にお金が有り余るほどに発行が起こるには、相当の貸付と健全な経営とが同時に為されていなければ成り立たない。
そして、借りた側が返済を果たすことで、どこかが破綻する宿命を背負う仕組みでもある。

 ところが、日本の繁栄はその想定を遙かに凌駕していたため、大きな過渡期を迎える事になった。

 銀行への全体的な返済金利以上の利益を海外から持ち込んでいたのが、東西冷戦時の出来事であった。銀行としても当時求められていた自己資本比率は国内法で定められていた4%のみであった。それはそれで年利で考えても、3%の金利に高額な手数料を得ることで十分にクリアーできていた事だろう。
 言うまでもなく、今の新興国は国内不安定にあったゆえ、なんら国内企業優先に貸付ても問題は生じなかったのである。
その上、東西冷戦下にあったとは言え、商売に垣根など無かったのであれば、米英・欧米諸国側が忌み嫌う体制の異なる社会主義圏との取引は非常に魅力的であったはずだ。また、それは当時の後進国からの安い仕入れがもたらした貿易黒字を見ても一目瞭然である。
 ところが冷戦終了後に経済のグローバル化が生ずる一方、BIS規制が取り決められた。と同時に、国内バブル崩壊にも見舞われ、国内銀行群は多大なダメージを被ることになった。

 以降、世界中が、他国からの安い仕入れを期待する構造がグローバル化の醍醐味となったのである。それはまた、どこにも隷属要素の期待できない買い付け下克上、コスト競争を意味していた。

 その時、銀行の投資は様変わりせざるを得ない。国内企業に投じるリターンよりも後進国に投じるリターンの方が大きいのであれば、自ずと流れはリターンの望める方向に流れるしかない。そしてそれは、国内中小企業に返済能力がないことを裏付けした上での投資構造への変転であった。
 さてその時である。市中銀行に発行権はなく、大赤字を抱えている状態にあれば、身銭をやり繰りしてでも準備金を入れて中央銀行から借りてくるしかない。そしてそれがそのままでは自己資本とは言えない。借りたお金は返さなければならないのだから。
それはまた他人資本を投じて辻褄を立てればよいと言う話でもない。
だから、少しでも資金を都合付けておくための段取りが様々に求められた。
 つまり、当時2000兆円の国内資産に対して銀行の内部留保が4%であったのであれば80兆円程である。それが海外に向かう過程において次第に膨らみ、結果として円キャリーを巻き起こしていった。
 そして海外に投じられていたのは、銀行の自己資本からなる信用創造からであっただろう。ここはさすがに他人資本をむやみに投じるわけには行かない。初期の段階であれば、そうするのが望まれよう。
 ただし、海外に投じた資金を引き揚げる段階にも為れば、殿となるべき生け贄が求められる事になる。そこで、それぞれの国において民間からの投資気運を煽り立て、自分たちの仕立てを商品と銘打って買わせればよいと言う話が出来上がる。
 うまくゆけば他人資本にあたる資本だけが大きく縮小することが適い、BIS規制をクリアーする的にはおいしいのだろう。

 しかし、問題は大きい。
新興国や後進国市場に対して日本の銀行が8%の高金利を課すわけではない。海外の株式市場など日本の貯蓄資本の大きさに比べればどれぐらいにあるというのだろうか?
そしてそこに手持ちの自己資本を海外に投じていれば、国内での自己資本比率は一時的に下がる傾向を見せる。信用創造と言えども、国内に貸し出せるだけの目処はない。銀行先頭でグローバル化を押し進めていればなおさらである。
 しかし、自国内にも景気のよすがを見せつけておかなければ、殿機能としての民間からの投資気運にその期待はおぼつかない。
そこで一番手っ取り早いのが、建てる家を担保にした金貸しである。
住宅バブルが起これば、返済が完了せずとも担保価値が貸した額の一割を下回らなければ元は十分に取れる‥もとい、自己資本比率の維持が約束されるのである。
 そして、バブルが弾けた後は、定期預金が増えるから、自らも痛手を受けたはずの自己資本比率を素知らぬ顔でその定期預金で準備金建てし、見せかけ上、辻褄を合わせることが可能となる。
もちろん、自行の経営が順当にあれている範囲に収まっていればこその話だ。


 さて、このような推察の元に、紙幣発行権とBIS規制の関係は、銀行の健全性を建前とした詐欺行為そのものにすぎない危険をはらむものである。

 当然ながら、世界的に各国行政が通貨発行権の権限を保持・行使するようになれば、BIS規制を放棄して行く流れとなるだろう。そうでなくては成り立つまい。
 一方で、銀行機能の維持を求めて、通貨発行権だけを行政に返還したとしよう。
その時、銀行経営を成り立たせるためにあるべき自己資本比率を2%程度まで下げればよいとする見解も見られるかも知れない。
 しかしながら、税金を納めていない銀行業界にそのような論理は通らないのである。
なにしろ税金を納めていなかったからこその高給体質だったとあれば、行員への職業的魅力は失われ、結果として人材の質ともに衰退してしまうのは察するまでもない。
 そして、その辻褄合わせに直接税を廃止したとしよう。
しかしながら、国債の裏付けを失っている金融業界に求められる金融調整能力はないのだから、行政と一体にあらねば成り立たないのである。
 ゆえに、行政と銀行の一体化は避けられまい。
そうでなければ、今度は逆に他の業界から行政が訴えられかねない仕組みに陥ってしまうのである。銀行業界ばかりがなぜ優遇されるのかが問われることになろう。そういう下りが予想されるのである。
 それが国民主権発行に織り込まれるべき姿勢であると思う。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 15:17 | Comment(0) | 発行権 | 更新情報をチェックする

2009年12月04日

【歴史認識】上杉鷹山を斬る!

1-4)改稿.2015/08/17...20091204...

> 命題:
  他藩すべて蓄え豊かにある時、または、他藩すべて蓄え貧しくある時、
  自藩の借財を石高増のみの手段で返済することは不可能である。



 他藩すべて蓄え豊かにある時は、米価が安く支払いのコメも多く必要になりがちです。
 ‥むしろコメで支払う事を諦めて別の算段を考えるべきになります。
 他藩すべて蓄え貧しくある時は、貸し手が引く手あまたなので、借りられるとは限りません。
 ‥元手を手配できない以上、事は一向に進まないでしょう。

 さて、この命題を上杉鷹山に引っ掛けて問うて見たいと思います。
↓/続きを読む/↓
posted by 木田舎滝ゆる里 at 15:10 | Comment(0) | 歴史 | 更新情報をチェックする

2009年12月02日

行政と通貨発行権…デフレ・インフレ検討

 今現在の暮らしに必要とされる生涯金額を考えてみましょう。
仮に子供のように1億円と言ってみても、平均寿命80歳で割れば年額で125万円にしかあれません。
現在125万円でどれだけの生活ができるかは人それぞれである部分を除いても、多くの方が途方に暮れるだけだと思います。
 そこで仮にその4倍であればどうでしょう?
年収で500万円であれば、それなりに社員給与の水準です。ただし、住宅ローンに子供の養育費に教育費ともなると一人では十分にあれても家族全体ではそうも行きません。
 それでは、家族一人あたりにその金額が常に手にできる状況ではどうでしょう?
4人家族であれば2千万円です。家族でやり繰りすれば十分にあれると思われます。
むしろ国民全体でそのようにあるとき、余剰が発生するような状況だと思います。

 つまり、個人単位の暮らしに求められるべき一人あたりに必要な生涯金額はその辺りに落ち着くという話に考えられるのです。
 ただし、自給自足による資源的な循環が成り立っていることがその前提に求められることは今更述べるまでもありません。資源や食料に土地と言った現物がなければ始まらないのですから。

 資源的な循環や環境の利用性が現在どうであるかを別にして、生涯金額の値だけの話として述べるのであれば、仮に求められる一人あたりの生涯金額をここでは4億円に見立てたとします。平均寿命が延びれば話は変わってきますが、仮に80歳とすれば…
 4億円÷80歳÷12ヶ月×1億2千万人≒50兆円
これは月額で国全体の市場規模が50兆円にあれなければ、現在の生活スタイルにおける公平な満足感が国民全体で成り立たないことを意味します。
年計算ではその12倍ですから600兆円です。
 しかしながら、そのような経済など成り立たないのが実際です。GDPでさえ海外市場を織り込んでようやく500兆円台がせいぜいでした。それも円安という条件での話です。
 一方では、原油高・資源高という悪条件がそこにはありました。
我が国のその当時のエネルギー自給率はなんと4%だったという話です。
海外向けに充てるエネルギーが必要であればあるほどコスト面での矛盾が生ずるのです。それはまた雇用面での矛盾に跳ね返ります。

 もし、それらのエネルギー経費が初期投資だけのフリーでクリーンで自給できたとすればどうでしょう?
もちろん細かいメンテナンスは求められますが、それでも、全体に求められる生涯金額は少なくて成り立つのです。
家計あたりで考えれば、交通費も含めて2割減ぐらいでしょうか‥600兆円の話が480兆円に下がります。
 税金の一切を払わなくともよいのでれば、さらに2割減でしょうか‥480兆円の話は360兆円にまで下げられます。
 自給自足を裏付けとして、年金や保険料の類のほとんどを行政が発行してくれるのであれば、300兆円ぐらいに落ち着てもかまわない話になってきます。
つまり、そのような条件下であるとき、求められるGDPは300兆円程度でも十分だという理屈です。

※ その時、仮に鉱物資源が極端に値上がりしたとしても、国民一人あたりに求められる量に敏感になれば、いくらでも調整が可能かと思われます。
なぜなら我が国にはカーボン技術があるからです。
エネルギーコストが0であれば、逆に資源輸出も成り立つのです。

 つまり裏を返せば、GDPが500兆円であるならば、100兆円程度が不足分として要求されることになり、その一方では200兆円規模の在り方に改善の余地があるという見解に映るでしょう。銀行業の貸付利用も含めてそう考えられるのです。
 とどのつまり、総じて今時分のやり方では、年額で毎年300兆円が、人間心理を織り混ぜながら不足して行くデフレ状況下に陥っている感覚があるように解釈されてもおかしくありません。
 このような計算をいい加減で裏付けがないとおっしゃるかも知れませんが、統計で考えればさほど的外れでもない算出に当たると考えます。
 ちなみに国民一人あたりに毎月10万円を給付しても144兆円でしかあれません。毎年300兆円のデフレ下に置かれているなどとは、確かに破天荒な数値であり、誰も理解のできない見解であることはたしかだと思います。
 ですが、仮に200兆円でも100兆円でも凄まじいと思います。それだけの国債発行が毎年のように求められるなど有り得ないからです。
 では、銀行の貸し付けならばどうでしょう?
新興国の台頭により、国際競争力に今ひとつにある現状では、国内企業と言えども、安易に貸し付けてばかりいては、他人資本の増大による自らの経営危機を招いてしまいかねません。そう言う意味ではもはや銀行が国内に貸付してくれる環境にはないと考えるべきでしょう。
 そしてそのような理屈にしても、国債増発による他人資本の増加との兼ね合いに説明が成り立ちません。いい加減、税金を納めないでいると聞く銀行業界に鉄槌を下すべきでありましょう。

 どちらにしてもそうでしかあれないのであれば、国債という手段にしても、銀行のあるべき形式にしてもたしかに崩壊しているのです。
関心のある方は細かく計算されてみるのも宜しいかと存じます。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 12:21 | Comment(0) | 発行権 | 更新情報をチェックする

行政と通貨発行権…税金検討

 行政が通貨発行権を持つとき、税金とは何であるのかを問わねばなりません。
他にも行政窓口や施設の利用料金であるとか、行政機能に吸収された銀行業に関わる手数料であるとか、貸付金であるとか、それらに求められてきた金利であるとか、その関連にある郵政であるとか、農協であるとか、様々な法人に求められる経費など、どうあるべきかが問われると思います。
 並びに、年金や各保険料に関しても同様に問われるはずです。

 税収の範囲ですべての公務を賄おうとすれば、どこかを削らなければならないわけですが、通貨発行権の権限と行使がそれぞれの行政で認められるならば、そこにあるべきモラルで通貨発行の決定を左右して行くことになります。
 その時、発行できるとばかりにその割り当てが公職にばかり集中していては、官と民で公平さを保てるわけがありません。税収であれば、その予算はたしかに行政の取り分であり、行政がどう活用しようがある意味おまかせ状態にあったわけですが、行政に通貨発行権があるのならば、民にも公平な視点からの慎重さが求められるのです。
 そこで民にも補助金をとばかりに、上から順繰りに優先順位を決めてみた所で、景気の影響を受けずに公務職の給与が常に安定していたり平均給与に大きな開きがあるようでは、公平さを保てていることにはなりません。
 それでも、税収という枠を外して公務員の数が増やせるのならば、それはそれで雇用の確保が成り立つという見方もあります。必要であると思われているのに増やせなかった部署などそれに相当するはずです。

 また、半官半民のような体質であれば、補助金という支援枠の他に、優先的に貸し付けても健全にあれるような事業体質にあれているかどうかも問われるようになると思います。
 それは同時に民間側にも問える内容にもなるでしょう。
そこが、行政が通貨発行権を直接取り扱うという意味になると思います。
 それぞれのケースにおいてどのように線引きされるかも重要な事です。
補助金なのか貸付金なのかという二択の支援策から自助活性を求めるというわけです。


 従来の在り方にあるとき、税歳入からのみ予算を組むしかありません。
それではいつまで経っても不足分には国債発行が強いられます。国際競争力とばかりに補助金で支援すべき新技術の獲得や新事業への期待も後を絶ちません。
 その結果、たしかに国民生活のレベルが向上したとしても、それは常に首都圏から始まります。当然裏では過疎過密による富や機能の集中化が絡むのです。それが人間側の心理なのです。心理ゆえに、そこにはいつまで経っても地方の一次・二次産業の活力回復には結びつかない仕組みが付きまといます。
そしていつまで経っても、国家全体としては新技術による収益に頼るだけでしかあれていません。
 攻めこそ最大の防御との意識が行き、守るべきを守れない安易な発想が日本の国民性であると浮き彫りにされているのならば、そこを改めるべき事です。
生きることは短期決戦ではないのですから。

 その割に内部構造においては、縦割りうんぬんでお互いの縄張り意識を尊重し合い、長期的な視点での縄張りの存続意識にだけは余念がない有様です。
結局はどちらも国民不在でしかあれていません。
 予算が限られていたからこそのいやらしい仕組みにあったと考えるかはまた別の話ですが、そのような区分や概念にとらわれず、発行のあるべき形として有用にあれば、官とて公職雇用の在り方に、柔軟性に富んだ発想での人材活用と国民生活に求められるべき機能を得るべきだと思います。


 行政自身が通貨発行権から発行される予算繰りにあるとき、どうして公職給与に対して税収分の発行をしなければならないのかという疑問が付きまといます。そのような公務員数だけのデータを管理する分の労力や金庫管理など無意味です。
そう思えば、公職給与ははじめから税引きの数値を示して提示されるべきになるでしょう。
 すると、民との混乱を避けるためにも、収支報告だけが義務づけられ、直接税徴収は撤去されてゆくべき流れになると思われます。

 法人税すらそのようであるとき、こんな考えもあるでしょう。
法人税がなくなると言うことだけも、全体的な民間支援の在り方の一つです。
それはまた、通貨における全体的な必要枠を減らす意味でも成り立ちます。
 利益の大きな事業との差は生ずるでしょうが、そのような場合には補助や貸付が為されないとすることで棲み分けができると考えます。そのようなケースにあたる企業や事業の資金調達は民から募るしかありません。
つまり社債や株式の仕組みは残る事になるわけです。
 国債もなく、行政銀行に預けていてもインフレ対策の一環として利息が発生しないとなれば、富裕層の資金運用は嫌でもそのような大手企業への貸付に向かうことになるはずです。
 弱い所は行政に面倒を見てもらい、強い所は自ら資金繰りに奔走すれば宜しいわけです。そこに求められるべき塩梅が求められるべきなのです。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 07:17 | Comment(0) | 発行権 | 更新情報をチェックする