2010年01月28日

集合意識とその学問的観察

 集合意識なる言葉そのものは、精神世界で用いられている特定の意識を指す用語です。
なんでも宇宙における実験の星である地球において、始めて採用されているシステムだとかなんとか‥
 単純に見れば、人類の総意です。是には民族単位などの総意も含まれます。総意でありながら、それ自体が個の意識として機能していると言われています。
語られている表現において、そのように判断できる範囲でしか述べられませんけどね。

 しかしながら、そんな情報を基に、昔からの人間の行動を社会学と折り合わせてみるとふとした感覚に導かれるのです。

 例えば漢字です。
 平安時代辺りで言えば、漢字を読み書きするのは一部の階層の人達だけでした。
そこで得られた集合意識としての情報は、日本人に求められる古き伝統もしくは教養として蓄えられているように思われます。
 ところが、江戸時代あたりでは、寺小屋による読み書きの学習が進み、多くの方が昔ながらの教養を受け継ぎます。娯楽と言えるものがそれほど多くない時代でしたから、みんなで同じ教養を身につけたわけです。
そこには日本人として斯くあるべしと言う精神性が蓄えられたように思われます。
 時代は下り、戦後教育として一貫した横文字学習が導入されると、横文字が生活のあちこちで用いられるわけですが、そこで記憶され始めたことと言えば、欧米化です。
 漢字での置き換え表現を試みていた明治とは異なり、生活様式そのものに当てはまる要素が失われ始めたのです。
その結果、日本人の気質に変化が起き始めました。
それから後、急激な変化が起こります。それがIT革命です。
 会社でもPCを用いることが当たり前となり、その流れとして文字そのものを筆記する機会がめっきり減りました。
その結果、文字と接しているにも関わらず、漢字が記憶の中から浮かびにくくなってきたのです。

 是が社会現象であれば、このように推理されるのです。

仮説1‥記憶というものは、現象一物で蓄積される一面を備え、それは社会現象(共有体験)においても強化・共有されるものである。
従って、生活様式が一極化していた時代と多極化している時代とでは、時代に反映される記憶の度合いに社会現象としての濃淡が生ずる。
 それはまた、個の時間に創出される喜びと、他と共有していた時間に創出される喜びとに差があることの理解でもある。


 では次に、主食文化です。
日本人で言えば、お米です。それの変化が起きたのも戦後です。
米国の経済戦略とか言われていますが、食の記憶として一貫した流れを想像するのであれば、胎児の頃の記憶に影響があるように思われます。
 その根拠は、胎児の頃の栄養を考えてみたとき、昔のそれとは明らかに様式そのものが異なります。その記憶の中にお米を食べる喜びが少ない胎児は、その後もお米に関心を持ちにくい。そう考えても不思議はないと思います。

 そして極めつけは給食パンです。
みんなで食べた記憶が鮮烈に刻まれた生活習慣です。
それが集合意識に影響を与えた‥その一面は否定できないと思います。
そう言う見方においては、米国の戦略は功を奏し、食の欧米化は加速したと言えるのです。
 また違った見方をすれば、戦中・終戦直後の主食とされた芋に対する偏見は、日本の歴史上飢饉の記憶と合い重なって、かなり根強く記憶されているように思われます。
 さらに時代が下れば、様々な加工食品が登場してきます。加工食品を好む人もいれば、外食ばかりの人もいると思います。そこで賄われている食材は輸入物であったりするわけです。

 結果、食生活が地場然で一極していた時代は、同じ釜の飯を食うのと同じで社会全体にも一体感が醸し出されていたが、そうあれない時代ともなれば、一気に老若男女を問わずして一体感にかけ離れた空気が醸し出されるようになった‥。
 特に記憶において述べるのであれば、日本人は地場の米を食べることで、先祖と繋がる記憶というものが精神性という一面に確立されて来たとすれば、それは集合意識の中で人格化している側面もあると予想されるのです。

仮説2‥集合意識に蓄えられる情報には、時代における一過性と、時代を超えた所で蓄積され形成される人格性との二つの側面が想定される。


仮説3‥仮説1と仮説2より、人間ひとり一人の個の意識は、常に集合意識の影響下におかれる。是により、より全体での場で一体感の起きている方が、集合意識にも隆盛が生じ、個人の能力にも特典が付加されるものと予想される。

 仮説3の説明現象としては、何事に関しても日本人は弱くなったとお互いの口からこぼれるようになった‥それは男女の関わりにも言えそうです。定量的実験の代わりとしてそれらが挙げられます。なにぶんにも分野は社会学ですからね。
( さらに是の予想として、戦国の時代の方が現代人の科学的なスポーツ訓練などより、より身体能力において秀でていた何かがあったものと想像されるでしょう。
でなければ人力で石垣など築けない‥と思います。)

 経済の二極化による多様化の推進は、仮説3から導かれる現象そのものに拍車を掛けるものであると予想される事になります。
なぜなら、今の不況社会への拒絶感が大きくなればなるほど、そこに生ずる生き甲斐そのものへと拒絶感が及ぶからです。
それが負の集合意識ともなれば、結果は自ずと想像に難くないわけです。(※犯罪・自殺・奇病の増加など‥)

仮説4‥共有における喜びへの多様化は、集合意識においても好奇心の拡大として受け入れられるが、そうでないのであれば拒絶されると予想される。
ただし、仮説3からなる心相エネルギーと覚しき現象面への投影は、両極性において起こらなければ、エネルギー現象として相応しくない。ゆえに両極面への展開が予想される。


 仮説4に関しては、地球におけるシステムとして人格付けられた側面と思われます。
それはまた人間自身の生き方にも通じる所です。
それを本能と申し上げても過言ではありますまい。

仮説5‥仮説4より、心相の具象化には、集合意識の承認が程度無意識下において反映されるものと予想される。
 これは個人の努力や能力を越えた全体での総意に影響されると思われるわけだが、時代を超えて成り立つ側面もあることにも注目されたい。
また、これにより、心相下に形成される心相エネルギーは、物理現象として具象化される方向性を持つと予想される。


※心相:日常心理から深層心理までを形あるものとして認識し表現した造語
※心相エネルギー:形あるものであれば、そこになんらかのエネルギー現象が発生していると考えられることから、想定的にエネルギーとして認識し表現した造語
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2010年01月27日

民主主義と集合意識

 みんなで考えることは概念として成り立つものの、実質的な全員参加は得られない。また、ひとり一人の細かい意見は、多数派の前においてはノイズにしかならない。
それゆえに、民主主義なる思考は多数派意見が大手を振ることになる。
 そして、大抵の意見は二つの傾向に落ち着く。いわゆる保守勢力と革新勢力である。
それでもおもしろいことに、本当の意味での斬新な物事というのは、民衆の暮らしの意外な所から発生するものである。
 そう言う意味では、形式的な話し合いの場というものは、議論すべき対象というものを点で見ることをもって論ずるの感覚でしかない。それが日常である。
そんな在り方に意味などあるのだろうか?

 仮に地球を眼下に眺め、すべての人の思考が手に取るように見えているとしたら、どうだろうか?、誰しもはそこに新たな好奇心を抱き、斬新さを求めて事細かに分類し出すはずである。
 それに基づいて様々な意見の仕分けが為されるのであれば、科学的かつ合理的に適材適所で対応することの民主主義の本質が成り立つと、誰しもは思う事だろう。
 仮にここではそれが可能という立場にあるとしよう。
それはまさしく神の領域である。そう考えられればそれが一番なのかも知れない。
 しかしである。誰かが奇妙なことを言い始めたり、新しい何かを興したりすれば、それにどのような反応を示すのかを予想立てる段階にでもなれば、結局はその認識において個人差が生ずるのである。
 そして、人であろうと神であろうと、それの予想をより適確に言い当てる存在を優れている者として認識し、優れている存在の発言を注視するものである。

 それでもおもしろいことに、本当に優れている存在は、納得の出来るまで物事の流れを冷静に見定めるまで動かないものである。
ゆえに、本当に優れている存在は、独創的な意見を述べる所がほとんどない。
 断っておくが、是は間違っても独創性に疎いという意味ではない。独創的な意見を述べることに興味がないと言った風情にあるのだ。
なにしろ、誰がどんな反応を示すのかを適確に見抜いておれば、それの適任な者に言わしめれば良いだけである。
それをもって誉めるという影響力に関心を抱けばそうなるであろう。その逆も然りだ。
 ただし、そこに根ざすものが、悪意であるのか善意であるのかは渦中にいるとこれがなかなかに見分けが付かないものである。
それゆえに独創的な事を語る立場の者は、独創的な意見を述べておしまいとするのが賢い生き方となる。
自ら動くことでのリスクに何のメリットも見いだせないと思えばそうなるであろう。

 さて話を戻そう。

 より優れていると言っても、その前提において何でもかんでも自由に事を成して宜しいと決められていれば、そこには派閥が発生することになる。
つまり、趣向の違いで意見が分かれるのである。
 その時、本質的に優れた存在がその派閥内のリーダー格になると言うよりは、如何に強い主張を声高々に述べられるかの才覚こそリーダーに相応しいと言えるだろう。
もちろん思惑という要素があることも外せない。
なにしろ自由にやって良いのだから、むしろ、そちらの方が優先されるはずである。

 結果、民衆は優れているという云々よりも、自分たちがどうありたいかを主体として、派閥の宣伝に乗っかって選ぶ傾向を見せるのである。
 余裕があり、とことん自由が信条だと思えば、自分たちの思惑により従ってくれるメンバーに投票するだろうし、乱れて来て、モラルが重要だと思えば、斬新な意見などどこ吹く風で、真面目にやってくれればそれで十分の選択支になるだろう。
 そもそもにおいて、悪化の一途を辿らない限り、本当の意味で再建するための発想を求めるなどあり得ない傾向なのも民衆である。

 なにしろ民衆は、発想と実行とが成り立って執り行われる‥在るべき日常というものが、自らの問い掛けの中から生ずる譲ることの出来ない絶対視野から端を発することを知らないからである。

 実権を握り、その旨味を啜る側が常に全体の三割を満たし、そのおこぼれに有り付く側が全体の二割であれば、それで半分である。
景気が良ければ、過半数を占めるのは道理、それが民主主義の盲点である。
「一体全体、民主主義とは何であったのかである?」
弱い立場の側を何とかするための選択肢の一つに民主主義という見解があった。そう思われるわけだが、その決め事の論理の足元に注目する者は実に少ない。
また、そうでないのであれば、うまい汁を啜るための選挙云々が民主主義ということになる。いわばマジックショーに近い。

 そもそもにおいて、民衆とは、どうありたいかうんぬんよりも、何を体験してみたいのかという日常の衝動の方にこそ意識の針が傾くものである。

 個人においてもそれは言えるのだ。
どうありたいかよりは、何を体験したいかと言う思いで一杯なのである。
それが日常に好まれる「刺激」という奴だ。
自分の好みとする刺激を求めて動こうとする傾向に傾いて行くのである。
 昔からよく「初心忘れるべからず」「初志貫徹」などと言われるが、実にそのままである。
民衆のひとり一人が不動心乏しくまた思慮浅くしてそのようでしかないのであれば、民主主義とは、どうあるべきかよりは、何を興すべきかという哲学無き妄想的期待・アメとムチから成される活動的消費に陥ることを指すことになる。

 そこで、政は云々どうあるべきかではなく、民衆の意識傾向自身の中にある、生活自体についてどうあるべきかと思っている深層の部分で、常日頃から定まっている意識の指針の部分を捉えてみる必要が生ずるのである。
 民衆がそれを望んでいないなどと言うことはない。時代時代における集合意識下で確立しているだろう部分部分を掘り起こす事が、政を見極めるにおいて重要な意識の辿り方である。
 意見を聞いて給わるのではなく、自ずから民衆として持ち合わせている感覚に聞いてみるのである。
その時、自らが民衆の感覚から掛け外れていると自覚されれば、その感覚がどの辺りを徘徊しているのかをまずは探る必要が伴う。
 そして、これらはまず、各人ひとり一人の個人意識の中で行われるべきである。

 すると、集合意識下において回路が繋がり、お互いの中で、在るべき事が成り立たないという仕組みに、とことん憤りを覚える事になるだろう。
何を興してくれるのかではなく、どうしてそれが成り立たないのかを問いたださずにには居られなくなるのである。
 当然、流れとしては、在るべき形にしておくことに理を覚える事になろう。
それが民衆としての己であれば、そこに到るはずである。

 在るべき形になることで、在るべき形として織りなされるであろうひとり一人の中に咲く文化性の違い‥それ自体との交流こそ民主主義として保たれる姿である‥人権の尊重とはそういうものである。
そのための最低限の事は、政が采を奮って取り計らうべきである。
 生産・物流・分配に、いつまでも権益を競うのではなく、在るべき生活の形として、成り立つべきは成り立たせ、個人の中から目覚めるだろう才能や価値観、その違いを文化性の交流として尊重し合える生活感こそ民主主義としてあるべき姿勢である。
そのように思う次第である。
 また民衆もそれを理解できなければ、完成形は成し得ない。
そして、生活をしているのは民衆である。御大層な理想論や理想家ではない。
現状は少なくとも公平な状況下にはおかれていない。可能性の追求においてその足元に公平性が成り立っていないということだ。
民主主義に対して、物質的な公平さの主張として対極を為す思想があるのであれば、そう言うことになる。
 民主主義の名において、個々の人権尊重として、人生の可能性の追求における最低限の生活基盤という公平性の確保が成り立つべきだと誰しもは思っている。
花は誰しもに咲いて然りである。
しかしそれに向けられた政は何一つ為されていない。
それはまた民衆の側にも言える。そこに民衆の意識の針が向いていないのであれば当然の結果である。

 ゆえに、民主主義が進化を果たすためにも、すべての意識は深層下において繋がるものであるという集合意識への理解と学問的な確立とが求められる事になろう。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 16:01 | Comment(0) | 破棄処理中 | 更新情報をチェックする

2010年01月21日

【金融商品】そもそものリスク合計は1である

改稿.2015/08/24...20100121...

> リーマンショックの裏に、金融リスクの確率分散をしたというすごい数学理論がありました。


 サイコロを何回か転がした結果、何回目以降からは‥(中略)という理論です。
 その怪しげな理論を引っさげて
 博士クラスのその手の専門家たちが、
 色めき立ってマンハッタンに出向き、自らが編み出した金融工学を自負したとのことです。


> しかし、よく考えてみて下さい。


 そもそものリスク合計は1なのです。
 それを細かく分割した結果の仕分けを一億分の一として売り込んだとしても
 欲を掻いて、一億に分散したはずのそれらをすべてばらまいてしまえば、
 全体でのリスク合計になんの変化も与えないのです。

 ‥全部ばらまきゃ、リスクは常に1なのです。
 馬鹿でも分かるでしょう。
 全く以てリスク低減になっていなかったのです。(実に簡単明快な落ちです)


 危険な解をどんなに分別したとて
 全部ばらまきゃ、いずれ崩壊するのは火を見るよりも明らかです。

 一つだけの崩壊であれば、全体で補えるかも知れないという論理以前の問題です。
 ‥恋は盲目ならぬ、金は盲目という数学者達の愚だったわけです。

 (そんなの科学でも何でもありませんね。ただのマヌケです)
 (一番に怪しい部分は、売らずに金融業界内でリスクを抱えるべき要素です)
 (その手のリスクを請け負う気が無いなら‥始めから金融なんか成り立ってねぇんだよ、ばーか!)


> 尤も


 ‥意図してばらまかせた方は、
 始めチョロチョロ中パッパ、バブル弾けるまで蓋取るな‥だったわけですね。
 (数学者の名誉も糞もありません‥奴らにしてみれば、すべては茶番の道具っす)チーン。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 00:16 | Comment(0) | 刮目/奴ら絡み | 更新情報をチェックする

2010年01月20日

震災預言と神界の本音

 近年に見られる地震はすべて地震兵器に因るものだという意見が大きく噂されています。それどころか、気象による異常も気象兵器に因るものだと噂されています。
いつ頃からそうなのかは定かではありません。

 神界からの言葉を預かる方々の最近の内容では、ますます異常気象が高まるとの発言をする一方で、米国の覇権を握る一部の集団は、秘かに宇宙人と関わりを持ち、そこから得られる取引で、かなりのテクノロジーを既に手にしているとの話です。
(※ちなみに、地球に関する宇宙人との関わりは神界の方針に従って取りなされています。つまり神界の許可無くして、宇宙人と地球人類の接触は有り得ないのです。)
 それにしても、無から有を取り出せる技術を持つ宇宙人が、一体どんな取引を米国の強欲な支配層としているのかに興味が尽きません。

 さて最近の気象についてです。
昨年の12月ぐらいでは誰しもが、このまま暖冬と思ったことでしょう。
しかしながら、冬とはいえ、その予想に反して原油相場の価格は上昇を続けていました。
 そして、暮れを境に暖冬模様は傾き、突発的なドカ雪に見舞われた地域などがありました。まるで、それらがわかっていたかのような原油相場の反映です。それ以降、原油相場の上昇は足踏みをしているように思えます。
 私の感想としては、気象操作の技術はレベルアップしている‥そう考えています。
それでもこれは日本の場合に限っての感想ですので、他国が当てはまるかまでは存じません。

 では地震の方はどうでしょう。
ちなみに地震兵器の原理は、地下にある水源にプラズマを照射して水源の水を沸騰させ、その過熱圧力を地下震動に利用するという内容です。
 最近放送されましたNHK番組(タイトル略)、阪神淡路大震災の震源の下にもそのような固まりが2つあったことが説明されていました。それはそのままに地震兵器の原理そのままのように思われます。ただそんな当時からそこまで正確に地震の規模や位置を狙えるものなのかは定かではありません。
(※ちなみに、新潟で起きていたM6.8クラスの連続した地震を地震兵器による攻撃だとすれば、その性能と狙いに同一性を見いだせなくもありません。)
 また、スマトラ沖に関しては、あの近辺の地下の地盤構造が海面上昇に伴う水圧に耐えられずに崩壊してしまう脆さがあるとの見解が神界の方から言われております。

 天然なのか?それとも兵器なのか?、まったくわからない状況を鑑みるに、アトランティスやムーの時代でも、同じような状況があったのではと勘ぐりたくなります。

 では何のために、そんなままどろっこしいやり方を人間に対して行うのでしょうか?
そこがポイントです。


 現代で言えば、震災に合えば人道的支援が叫ばれます。どんな主義主張をしていてもその辺りの心理に国民性という壁は無いようです。
 しかしながら、少し疑問が生じます。
ふだんは競争の煽りを受け入れていながら、困った時になれば皆一様に人道的支援を口にするのです。競争が出来ないからではありません。本気でそう思うわけです。
 一カ所や二カ所への対応なら何も疑問を感じる所ではありませんが、仮に世界同時多発的震災なる現象が起きたとしたらどうでしょう?
 支援など来るのでしょうか?
仮に来ることが前提で、十分な支援がやって来たとしましょう。
それは何か変な話です。それだけの用意や準備がなされていなければそんな事は成り立ちません。それが前提にあります。
 予算や計画以上に儲けるにしても、誰かが会社の方針に違反して増産しておかなければ、ブレイク中の売上倍増には繋がりません。それはブレイクしなければ在庫を抱えるだけの不経済な経営そのものです。
 言うならば、支援計画以上の災害に対応できたならば、それは明らかにおかしいと言うことです。国連はどれだけその準備が出来ているというのでしょうか?
近年においては毎年必ずどこかで何かが起きています。
一国の国内での出来事であれば、体力を削がれて手に負えない有様になるはずです。
 特に食料の調達は不思議です。それだけの準備がなされているのであれば、世界中にはかなりの食料準備が成り立っていると考えてもおかしくないからです。
テレビ報道では、支援の届いている人とそうでない人の言葉が聞かれます。国連は準備があるようになだめてはいますが、実際には不明確だと言うことです。
 そうでないというのならば、なぜ、国連はそれだけの準備が出来るにもかかわらず、普段から分かち合う段取りを取らないのかがその時の疑問として持ちあがるのです。
それは本腰を入れて何もしていないという説明的現象にしかなりません。
それはそのままに人類のすべてに対して言えることです。
震災という理由がなければ分かち合えないのであれば、平和など分かち合えるわけがないのです。そう思います。

 神界が自然災害を預言する言動理由の裏側にあるものとして、一部のクレイジーな人間(特権階層)を利用する‥利用することを試みる勢力がいる(そうなるように段取りを仕向けている)‥そして神界には特に是と言った意識の制限がされていない‥それゆえの最低限の現象界に対する心配り‥そう考えられるのです。
 なにしろ、神界は自ら、心の像が現象化するを口にして繰り返す立場です。
そして人間がそれほどに破壊的なエネルギーのみを蓄積しているのかと言えばそうではありません。自然環境に対しては、全体で見れば意識は薄いように思えますけどね。それでもそれはそういう地域で請け負えばいいだけの論理です。
 宇宙から飛来した小惑星が衝突でもすれば、一瞬で地球文明など崩壊しかねませんが、そうではない地球上での出来事であれば、人間を利用するしか盛大に行うための方法論はない‥そんな気がいたします。それが通常認識下での意識の現象化原理です。

 アトランティスやムーの時からそうだった‥ただ、その時はしでかしてみたい衝動の方が無意識下で暴走していた。しかし現代社会においてはその暴走に集合意識下での何らかの歯止めが起きているために預言は必ずしも的中しない‥それでも人類はその先の未来をどう生きればいいのかに素直になれないでいる‥もっとも素直になれていないのは一部の強烈な特権階層だけのように思われる。
 そしてそれら危なげな特権階層の言動操作に安易に誘導されているような人間には何も期待していない。それが神界の人間に向けている厳格な判断‥そう考えられるのです。
 とまぁ、長い説明でしたが、そんなこんなで自業自得?天罰?天の警告?の震災論でした。
もっとも今の時代一番の問題は、人類の大半が、神の何を信ずれば良いのかを見失っている点において、全体でのエネルギーバランスの欠如があるように思われます。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 23:06 | Comment(0) | その他 | 更新情報をチェックする

タクティカルRPGに民主主義は見いだせるか?

 タクティカルRPGのシステムは実に資本主義を臭わせます。
その手のゲームをプレイしているとつくづくそう感じます。
 大戦略のような現代兵器を主体とした戦略ウォーシミュレーションでは、都市を占領することで兵器生産の予算が得られ、生産の出来るポイントで生産をする形です。
敵対国との戦力バランスが取れているときは前線が築かれ、ゲームとしては盛り上がりますが、その均衡が一旦崩れようなら、生産力に差が付いてしまう事からどうにもならない消化作業をどちらにも強いるだけに落ち込みます。
 その手の消化ゲームを、ゲームであればもっと楽しく進められるように工夫すれば、ゲームとしてゲームらしくなると思うわけですが、そんなことを思ってしまうのも、現実社会と比べてみたり、日本の遊び文化と世界の遊び文化との差を思えばこそです。

 例えば、遊びですから、{破壊された数}≒{生産された数}が負けた側の状況であれば、前線が崩壊したことで、撤退し、それ以上のユニットをむやみに失わせずに後方に集めて、最終的には相手の兵器を破壊した獲得ポイントを競うという発想であれば、ポイント差での逆転を目論むという粘りをゲーム性に取り込むことも出来るわけです。
 それが民主主義的かどうかは別として、ゲーム性のモチベーションを保つには、それなりの一工夫が必要だと思います。でなければ、対人で遊ぶというゲーム文化には弱肉強食を煽り立てるような取っつき難さしか育たないように思います。

 それはつまり、ゲームと言えどもリアルファイト張りに、徹底的に仮想現実と化す発想が本当の意味で楽しいのか否かです。
 マンガにおいても、リアルの武道とスポーツの武道の差を区別する思想があります。それはそれで人間性の持ち味としてはおもしろいと思いますが、この辺の徹底思考は、民主主義の市民意識からみればクレイジーでしかありません。
 だから良くないという視点ではなく、ただ民主主義として考えたとき、どこに主体を求めるのかという理念は重要だと思うわけです。

 例えば、柔道や剣道です。
技あり有効と追いつめられていても、一本でひっくり返るわけです。
それがゲーム性です。肉体を駆使すれば競技性です。
 実践の命の取り合いでは、技ありでも有効でも命取りになりかねません。一本などは無いのです。たとえ一本とばかりに状況がひっくり返ったとしても、生還できるかどうかに保証など無いわけです

 チェスと将棋では、取った駒を使えるかどうかの差ではありますが、その差は騎士道と武士道の差のように思えます。
 その昔、天下を取ることで戦が無くなると誰しもが思っていたわけですが、そんな戦を認知しあっていたのは世界広しと言えでも日本の戦国の世だけです。
それはつまり、天下をまとめるための戦という風情が将棋の駒に反映しているように感じられるのです。味方をすれば重宝されると言ったところでしょうか‥
 ところがその一方で、取った駒を使わない概念は、覇者として勝利した一族で側近を固める事を前提としている概念の現れのように感じられるのです。
それだけの文化の差、民族性の差がそこに息づいているように思います。

 花札なんかも意味深い所があります。
花札に見られるこいこいルールは、持ち越すか持ち越さないかが株式トレードに似ていると思える点は資本主義的だと思いますが、ところがどうでしょう‥麻雀やトランプでは、勝つことを主体としていますが、勝ったのにわざわざ相手にも起死回生のチャンスを与える要素が花札にはあるのです。実にユニークです。
 で、ついでながらこんな日本的な古典ゲームを今の時代なら武将の顔に置き換えて何か出来ないかなぁと思ったりします。タイトルは「天下札」なーんてね。
ゲームとしての売りは、武将にまつわる伝承を織り込んだ人間学を学ぶための要素を花札形式に取り入れられるかどうかです。
ただ、札の総数をどれぐらいにするべきかを決める上で知識が足りないため、アイデアとしてまとまっておりません。(※ちなみにこのアイデアの活用は自由です。)

 話を戻しましょう。

 言いたいことは、人生はゲームではないと言い張ったまま、斬った張ったにしかあれていない弱肉強食な経済ルールと対峙するだけが人間の織りなす文化性ではないと言うことです。
 そしてそこに革新をもたらすことが出来るのは、ゲームにおいてさえユニークな発想を見い出してきた日本国だけなのだと思えるのです。
 生きやすくするための改革を求めればこその文化です。
{リアル=弱肉強食}である必要は民主主義において必ずしも必要ではありません。
ゲームだからと言わずに、そう言う所から、民主主義としての在り方を模索する態度は大切だと思います。
 仮に、弱肉強食からなる克己心であらねば人生へのモチベーションが保てないというのならば、そこに民主主義の育たない原因を、その人自身が自分の生きる世界観の中に持ち込んでいるという以外のなにものでもないと言えるだけです。
 すべての人がそのようなモチベーションのままに生きたいわけではありません。
民主主義とは多数決制と言われても、それ以前に、人権の保障それ自体が国民主権の主体として存在するのです。どちらの方が重いかと言えば、後者なのです。そう思います。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 20:11 | Comment(0) | その他 | 更新情報をチェックする

2010年01月14日

逆転のペーパーレス

 台頭を見せては消えていた紙の電子化技術(電子ブック)について一言。
最近の流れもアレぐらいでは不発に終わるだろう。そう思います。
しかしながら、発想を変えれば、あら不思議‥そんな着眼点を思いつきました。

 電子新聞を読むための新聞サイズの画面、もとい、身長サイズ・壁サイズの画面を前にして自分が立っている場面をイメージしてみよう。

 壁に記事情報が映し出されている‥その画面に触れてページをめくる。
携帯サイズの小さい画面でしていることをビッグサイズに置き換えてみる。
すると、当然ながら雑誌もマンガもそのサイズで毎日見る方が操作性にストレスがない。お気に入りの箇所で画面を付けっぱなしにしておけば、そのままポスターに早変わりである。ここはポイントである。節電要素にしても、有機ELならそのまんまで画面情報を維持して付けっぱなしにしておけると聞く‥。

 見方を変えれば、ちょっとした黒板に早変わりである。
冷蔵庫の前面扉にそんな画面を貼り付けておいても良いと思う。外からその画面にメールを貼り付けられるというのもおもしろいだろう。
 普段は道角の広告ディスプレイとして飾っておくだけではもったいないと思うなら、ダウンロードした新聞や雑誌のデータを道角のディスプレイで見る習慣を持つことも有りだ。
 それはそれで、TV画面への意識改革にも繋がりそうだ。
なにしろ道角で体験できたことが部屋の中で成り立たないのはジレンマだろう。

 たとえば図書館や病院の待合室ではどうだろうか‥公の特定の場所でそんな大画面で閲覧が出来れば、それはそれで、奪い合いの一見ものになるのではなかろうか‥。

 電子ブックというシステムを単体で売り出す前のテストとして試みるのならば、データを持ち歩くだけで宜しいとなり、個人には高額と思われるシステムは後回しで十分にしてしまえるのだ。キャッチフレーズは「ライブラリーを持ち歩こう」とか‥
それだけで後は成り立つ。
 なぜなら、見るのは道角やカフェのディスプレイ、それが前提になっていれば意識もそのようになると思う。もちろんPC等での閲覧も可能であることが前提となる。
 壁の壁サイズの画面の前に立ち席というものを設けて、その日の新聞なり雑誌を、お茶しながら閲覧する‥提案としてはそうなる。
 店内での買い物の最中でも、カタログを大画面で見られるというのも悪くない。
その閲覧情報には無いちょっとしたモノをそのまま意見として承れるような書き込みが出来れば、それはそれでペーパーレスへの一歩となる。

 ブックを読むためだけの売れるか売れないかの見定めの難しい商品であれば、客寄せ用にお店に何台か設置してもらい壁サイズのディスプレイで利用できる方が望ましい。ちょっとした待ち合わせ場所としての活用もあるだろう。使われていないときは店頭のポップ広告を流しておけばいい。どっちが主流になっても損はないわけである。

 それが板に付いてくればしめたもの。
そのまま部屋のディスプレイにも革命がもたらされることになる。
しかし、日本の宅地状況を考えれば、その期待はかなり微妙‥。

 そこでそのとき、電子屏風が台頭したりして‥
ディスプレイのブランド名もそのまんまに"Byoubu”そのキャッチフレーズも屏風のように折り曲げて保管できます。なーんてね。


 一方ではこんな実験も試みることが出来る。
外に画面を置くのであれば、映し出した画像をただ書き換えてしまうのではなく、消してしまうのではなく、落書き魔たちがするような発想を応用して、巨大なディスプレイに自らの作品を一定時間発表しておけるような場所を設けても良いだろう。もちろん電子データとしてね。人の集まりそうな場所でそれを実験してみるのである。
 ちょっとした憩いの場である。緊急時には地震速報なども流せるとなお宜しい。

 結局のところ、新聞なんだから新聞サイズの画面で見てこそ新聞と言えるだろう。そう思います。
 しかし新聞の字は新聞サイズでは小さい。電子画面であればわりと簡単に拡大ができる。この要素は画面が大きければ大きいほど圧倒的なアピール要素となるはずである。それが高齢化の流れ?‥子供の頃からそれになれていると手放せなくなる?‥とりあえず、そんなインパクトがなければ電子ブックなど要らないと思いますね。
 どちらかと言えば、手帳代わりにならないと意味ないし‥見るだけが主体なら見ることを主体に主張させるべきだろう。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 16:13 | Comment(0) | その他 | 更新情報をチェックする