2010年05月29日

アレって、参加型回覧板ですね

 アレとは、言わずともiPadの事ですが、電子BOOKなどではなく、回覧板を地球規模に拡大させたように見えてきました。見えてきたというのもまだ手にしてないので、参考意見です。
 あれで、電子ペンが付いていて気軽にメモれればアイデア・スケッチ帳としては申し分のないアイテムになると思いました。もちろん高度なお絵描きができるレベルで望みます。
そう考えてしまうと、まだ買う気にはなれませんね。
 それと、ゲーム市場に影響が出るのではと‥普通に感想を抱きました。

 それにしても、横書き専門の左めくりばかりで右めくりはできるのかに疑問です。
当然できると思いますが、今やマンガも世界では右めくりが常識です。
なんでも原作に忠実な方を好むんだとかで、この辺は合理的には考えられずに、作家の側のそのまんまのスタイルが受け入れられた形です。(※今や製本の現場は電子原稿です。ツールを使って、うまい具合に吹き出しや描き文字・オノマトペの部分の加工がわりと自由にできますから差し障りのない状況にあるようです。―)
 どうせなら上めくりもあって良いと思います。
そちらの方が資料を漁る気分も盛り上がる気もしますからね。


 渋い使い方としては、電子回覧板(iPad)を使った署名活動なんて良さげですね。
もちろん、ウェブサイトにアクセスして書き込めば良いわけですけど、街頭の目の前にある板に直接書いてもらうのも、体を張った行動と電子機器が連動している一体化に真新しさがあって良いと思います。
 まぁ、収集後の分厚い資料を見せつける説得力は薄れるかもしれませんが、署名の資料作成が簡潔になる分それはそれで手の空く時間ができるわけですから、運動の展開のさせ方にも変化が望めると言うことでしょう。
 例えば、マップ情報と連動させた署名であれば、どこのエリアに賛同者が多いかを後から割り出しが可能となったりと、ものは考えようです。ウェブサイトにアクセスするだけでは、そこまではなかなか生活感が見えてくるような展開にはなりませんからね。

 これを街頭アンケートで考えれば、好感の良い場所と悪い場所との区別が、記録によって割り出せる形ですね。電子回覧板の画面に触れてピピッと押してもらうことで調査位置が記録されれば、ウェブサイトのアンケートからはわかりにくい生活空間の模様が浮かび上がるわけですから、考えようによっては、ネットに繋がっているのに逆に街頭調査も拡大して行くのかもしれません。
 そういう習慣が根付けば、ついでに、街頭でのアンケートに参加していただければ抽選で後から連絡が届きますとばかりに、携帯電話を用いてタッチしていただくとよりお得です(※事前にウェブサイトからユーザー登録の要有り―)みたいなサービスも展開されるのかもしれません。
 宝くじ事業も廃止うんぬんですから、広告代理店など通さずとも、企業自ら宣伝と市場調査とお得還元を組み合わせた新戦略を企てることも可能だと思います。
 まさに、企業からの参加型回覧板ってか‥
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2010年05月28日

農業の国内市場規模

 農業ベンチャー・株式会社オリザ 参照図を参考に、地域主権ルビコン物語…その14(5)で国内の農業規模を10兆円としてみたところ、最近の○岡新聞の記事に、こんなのを見つけました。

 「(前略)‥日本の農業総生産出学は1984年の約11兆7千億円をピークに減り、08年には約8兆5千億円に落ちた。原因は農産物価格の下落と生産の縮小である。
 今後、農業人口の6割を占める65歳以上の農業者が引退すれば、労働力が不足し10年後の産出額はさらに3兆円減るとの資産もある。‥(後略)」(鳥取環境大学教授 金子弘道)


 参考にしたネット記事は、検索でサクッとヒットした適当なサイトが他に見あたらなかったので、たまたまヒットしたところが農業ベンチャーさんだし、まぁそんなに間違っていないだろうと思ったわけですが、なんと10.1兆−8.5兆=1.6兆円も差があったようです。

 しかも、ピーク時期でさえ11.7兆円‥農業が如何に押さえつけられてきたかがうかがえます。

 参考にしたデータの誤差が大きかったとはいえ、単価で考えれば15%OFFですから、最近の市場価格の落ち込み幅を織り込んで鑑みれば、当時の消費の冷え込み方から来る下落率の見方の差との解釈もありだと思います。
 とはいえ、産地買い付け時の値切りと、消費者販売時での値下げでは意味合いは全く異なりますが、数値をおおざっぱに読んだ場合、その差は誤差にしかなりません。(他人の人生を世論にしてしまった場合と似たような形です。)
 その見方としても、農家がカツカツであれば、流通で、販売でと、分散してどこもかしもも身銭を削っている幅が人の見方でそれぐらいの差に出るということなのでしょう。
 また見方を変えれば、農家が活きるような政策をしてやれば、流通も販売も損をしなくて済むような段取りになるはずだと、そこで問題にさらされている根本を見直すべきだとなるはずです。
 ここは、誰がどう考えても市場主義一本槍な発想では不可能です。心臓のポンプだって部屋が4つに区切られてるんですからね。


 えー、ちなみに新聞記事のタイトルは、「農業を10兆円産業に」でした。これって、価格が上昇すれば幾分近づく数値でしかありません。
価格での考え方が如何に人によって解釈が異なるかって事ですね。
 とはいえ、農家からの買い上げが平均15%上昇した場合、消費者販売に乗ってくる価格はその2倍程度でしょうから、消費税増税以上の衝撃でしょうね。

 一方で、そもそも6割の方が引退するというのに、3兆円しか減らないって、その6割の方の頑張りは、現在毎年3兆円規模ですって言ってるようなものです。ン十年の農業生活の中でボーナスとか賃金値上げなんて望みようもありませんでした‥と語っているような内容にしか映りません。それで新規農業者を誘うだけ誘うしかない農政の態度は正直ずぼらにしか映りません。
 なにしろ残りの市場規模は大手企業との絡みでしかありませんと言っているようなものなのですから。
 それで15%回復させましょうレベルの見解は、逆から見れば、引退者続出後の4〜5兆円の回復幅をなんとかして行きましょう‥を論じているようにしか聞こえませんし、つまり、自給率回復の話からはほど遠い次元なわけです。
 「大手企業の生産ラインで使用される国産幅をなんとか維持したいですね」‥と聞こえても来そうです。

 総生産額と自給率を比較するなら、おおざっぱに見ても4割で10兆円なら、6割に乗せたければ15兆円です。5兆円分以上の余力を消費者側に発生させないことには、食消費の拡大による継続的な総生産額の上昇など望めるわけがないのです。
 その余力が海外産との競争と、価格で打ち負けているのであればなおさらです。余力があれば、国産を買うのが当然の意識は根強いと思います。なにしろ中国の富裕層でさえ日本産に対する信頼は高いのですから。


 ついでに、地域主権ルビコン物語…その14(5)で示した産地6兆円分の村ポイントを発行し合えば、食糧自給率6割に上昇の根拠ですが‥
 値段が今時分の相場意識を参考に考えたわけでして、CAS冷凍を活用して産地で調整し合えば、価格も安定して多少上がる(水準)と織り込んで考え、その場合、はじめの参考値の10兆円を基準としても、見方にさほどの差は予想されず、価格としての評価では食糧自給率6割か少し下かる程度とやはり考えます。

 一般的な考え方の中に、「高い技術で高品質の農産物を生産し、高値で販売すれば産出額は増える。」‥というのがありますが、今時の農業の場合、手を抜かない限り、どこもかしも実力はほぼ横ばいです。
 仮にそこに差を見込むとすれば、農業世代交代後の品質に産地でバラツキが起これば、高品質を維持できている所は高く売れるでしょうが、それが起こらなかった場合、作れば作るほど結局は全体で下落してしまうのが、品質の均一化による反比例が価格に反映され出すという落ちです。

 6兆円分の増生産がその後者のレベルで進んだ場合、今まで高値で買いにくかったオーガニック野菜の値がこなれてきて、海外産の野菜よりは高いかもしれないが、毎日の健康を考えたとき、それほど負担にはならない感覚が得られ始める‥と考えても良いわけです。
 しかし、新規農業者の期待に応えられないずぼらな農政の場合、前者の傾向が顕著に生ずれば、全体的な食糧自給率の回復は望めず、農業経営者の間に決定的な格差が生じ始める懸念も検討しておくべきだと思います。
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2010年05月18日

宇宙情報の恋愛観は正しいのか?

 さて、小説創作に向かうにあたり、根本的な哲学問答が始まってしまいました。
仮に恋愛をテーマにしたいと思っているとします。恋愛は言うまでもなく基本です。この男女間の感情の様を否定して、それは電気信号の作用に過ぎないとヤボなことを言い出せば、人間道徳というものは根底から成り立たず、そんなことを頭から言い出す科学者はゾンビ同然です。

「それでも、巷にあふれた恋愛観は正しいのでしょうか?」
まぁ人それぞれですから正しいもくそもありません。自由にやればいい。
そういう見方が往々にしておおざっぱな感覚にあると思います。

 ここを巷で語られる宇宙情報と照らし合わせてみたとき、宇宙規模で滅んでしまうような文明・文化に根付いていた恋愛論など信用に値するのでしょうか?
 これは地球人の起源が宇宙にあり、その宇宙人の最果ての地が地球というカラクリであるのならば、地球人にも当てはまることです。
 そして、その地球上でも行き詰まりが生じており、転ばぬ先の杖として実験が行われている地球に、因果から宇宙から来ているとしても(そう言われております)、成長は見られず、そこにある男女間に求められたバランスは何一つ向上など見せていないと言った驚愕動転の想いに更けてしまってもおかしくありません。

 ちなみに、宇宙情報からは、彼らのある存在から見て、地球人の恋愛は「所有欲だ‥」という意見がでておりますが、さてさて、そんな彼らの恋愛観でさえ、その文明は滅びの危機を避けられずにいるのです。それが宇宙の実態だと言われております。
 まぁ滅びの危機と言っても原因には様々な要素がありましょうが、そこにあるコアな部分としての恋愛観は正しいのでしょうか‥

 もし、滅びてもかまわないほどの自由さをもって愛を語るのであれば、不毛に過ぎないわけですし、継続的な姿の維持が中身はどうあれ成り立ってゆくのであれば、それはそれで合格ラインに位置した恋愛観だと考えてもおかしくありません。

 そして、この問いかけはそのままに、西洋人の自由気ままな恋愛観と古来から東洋に見られたお家の事情に土着した恋愛観の問答ともとれそうです。


 ここで、作家的な視点から言えることは、本流と思われている恋愛観にも欠落した部分は必ず潜むものであり、何を押して何を下げるのかはそれこそ作家の見せ方の課題でしかない‥つまり、どのような恋愛観にも可能性を見いだそうとするのであれば、変態・異質・異端といわれるような恋愛形態でさえ、なんら恥じる必要など無いという態度も成り立つ‥ただし、それなりの主張が通るような見解がそこに見いだせているのかどうかが重要だと相成るわけです。
 ‥などとくくってしまえば、振り出しです。
「自由にやればいい+それなりの主張を見いだせ」‥うんぬんで、つまりおおざっぱなままです。まぁそもそも恋愛はそこが基本でありますから、逆から見れば、保証された恋愛形態など何一つ存在しないとなるわけです。ツインソウルとかなんとかもその範疇でありましょう。
 そうであれば、実際問題としても、悲観的すぎるのも楽観的すぎるのも論外だと言えるわけです。パターンとしても当然でしょう。作家ならそんなキャラにはツッコミを入れるがごとく一悶着付けるのが筋というものなのですから‥
 つまり、あるべき姿を自分の現実に持ち込むが如し恋愛を創造したいのであれば、自分のルールは自分以外の世界とは常に不一致であることを自覚した上で、理解を得るためのケアは常に欠かせないと‥そこに継続性や継続欲が伴わないのであれば、根本から見直すべきだ‥となるんだと思います。

 とはいえ、この恋愛ケア第一論主義は、何かと相手優勢な意味合いを持ち、ストレスの溜まりやすい要素を抱えます。まぁ逆から見ればそこにストレスを抱えているうちは本物ではない‥それが愛だ‥となるのでしょうね。もちろん感性としてだと思います。
 なにしろ世の中にはその逆のパターンも然りとして存在しておりますからね。
その時、文学=感性でしかないのであれば、そんな文学観ははっきり言って化石なのかもしれません。

 化石の用は、化石として楽しめるというだけであり、そこに秘められた生命の神秘を空想できる点において勝るのでしょうが、現実としては‥既成概念にしかならない厄介者だという事になるのでしょう。
 まさに既成概念・世俗概念だけで恋愛をしようとしているのか、それとも、自分たちなりの恋愛創造がそこに作用することを求めているのか、そのバランスが活力となるかならないかの境目なのでは‥と思います。
 言うならば、そこにある恋愛創造に、すべてへのつながり意識が濃かったか薄かったかの疑問が投じられないかぎり、宇宙に飛び出してゆけるような地繋がりな恋愛論への飛躍などありえないと思う限りです。


 具体的な事を申し上げれば、誰しもが恋愛をして結婚をして家庭を持ち、各々で居を構えたいと考えているのであれば、どうしてそこに生じてしまう物理的な限界を社会が真剣に議論し合わないのか!?‥です。
 {持ち上がらない}={誰もそこまで真剣に恋愛を考えていない}という返答にしかなりません。そうであれば、不遇のやってくる確立がそれなりに高くあっても当たり前だとなるのです。
 そのように、はじめから自分たちの恋愛創造を裏切っているのであれば、世の中の流れが好転するはずもなく、べったりと地べたを這いずるような段階から抜け出せないのが社会的な現状にしかあれない‥そのように斬ってしまっても差し支えないのです。そんな段階で文明を謳歌しようなどと誰が正気にあれるのでしょうか‥
 そこにあるような総合的な恋愛創造は、先着順の勝ち誇ったような像にしか映らないはずです。ならば、嫉妬も有って当然です。そこから様々にこじれるのも当然です。そのようにしか自分たちで創造し合っていないのですから当然としか言いようがありません。

 このような恋愛論は、好きとか嫌いとか、上手く行くとか行かないの気持ちの有様とか、そんな一般的な次元から問うものではありません。物理的な現実問題として、そこにある理解が競争でしかないという中身を問うて行くものです。
 物理的と言っても、「特定の人は一人しかいませんよね‥」というような流れでもありません。特定の人の奪い合いみたいな話にしても、当事者同士の恋愛創造に勝ち誇るようなビジョンしかないのであれば、それもそれ以上の進展は望めないわけです。
 そこにまた一般論を持ち出す必要もありません。当事者同士で納得できるスタイルであればそれもまた有りだということです。
 その全体的な視野において、物理的な限度が伴い、なおかつ、その限度の許容を拡大できるような取り組みを社会全体で向き合い確認し合う習慣がないのであれば、お互いの恋愛創造も現実に作用してゆかない形にしかならないという話です。

 まぁそこまで考えて恋愛をする気にはならないでしょうから、教育の視点として取り組んでしまうのも考え方の一つだと思います。
 性教育をどうして行くのかを論ずる前に、そこのところの踏み込みがまるでないのはさもしい限りです。


 翻って、特定の宇宙人にしてみれば、それぐらいは織り込み済みなはずです。
そして、地球人はまだまだ総意としてそこには至っていないと思います。
結論として、「宇宙情報の恋愛観は正しいのか?」に決着の知るよしはありませんが、方向性の確認をし合うぐらいの態度は社会現象になってほしいところです。
 環境問題をとことん突き詰めてゆけば、「総合的な恋愛創造・家庭創造の可能性を引き上げるには?」に置き換わるのですからね。これは言い過ぎではありません。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 14:39 | Comment(0) | その他 | 更新情報をチェックする

2010年05月17日

アフリカが連合して自己主張を始めると中国がこける

 現在のアフリカ経済の発展は、資源開発やランドラッシュの勢いに乗って際立つ部分もある一方で、歴史的な抑圧から外資を嫌う風潮もあるようです。これらは国の諸事情により発展の仕方にムラがあるように映ります。
 一概に「アフリカ」という枠ではくくれない特殊な地場を秘めているように映ります。中国を「動」と見ればアフリカは「静」、中国を「能動的」と見ればアフリカは「受動的」なバランスを確保しつつ、現在の地球にめまぐるしい動きを醸し出しているように見ることもできます。

 言ってしまえば、中国とアフリカは切っても切れない関係を保ちつつ、お互いを喰らい合い、突き進む流れの中にあり、アフリカが連合して中国に対しても主体的な経済主張を自ら行うようになれば、中国経済に影響をもたらす要素を抱えていると言えるわけです。
 そしてそれはまた、中国にしてみれば、巨象になった後のアフリカには外に出てきてほしくない相手でもあるわけです。

 それに加え、中国経済とアフリカ資源との関わりはどことなく開国時代の欧米列強と日本との間に見られた不平等な経済形質が漂う反面、アフリカの自立を求める人たちのあり方は当時の日本人の中に見られた内向きな発展のよすがを感じさせます。
 ここを鑑みるに、たとえ一部のアフリカが外資による急速な経済成長を成し遂げたとしても、日本の島国感覚をどことなく漂わせ、歴史的な抑圧の影響をそれとなく引きずれば、内向きな発展を望んでゆくものと推理されるでしょう。
アフリカは中国の発展の仕方とはまた別のベクトルを秘めていると考えます。

 そこで、世界が中国に期待するのは民主化の流れ、アフリカに期待するのは自立した内向きな市場形成と相成るわけです。
 アフリカまでもが資本主義と同じ流れに乗って世界と競い合うことを考えるようになれば、それこそ従来の先進国にも地球環境にもメリットはありません。
それはまた、アフリカ大陸の暗黒時代の傷を振り返ればこそ、望まれないあり方です。
 そこを思えば、中国もまた資本主義によって清王朝を滅ぼされた苦い記憶を刻んだ国です。中国やアフリカが自らの繁栄を求めて自然と組する流れは、お互いに資本主義経済圏とは違う足取りを手にしようと向き合った形でもあると思います。


 そこで、まだまだ未開発な領域の方が目立つアフリカの様を戦後日本と比較して考えてみたとき、「アフリカが新生するための文化を学ぶべき相手は日本なのではないか?‥」ふとそんな感覚に包まれます。
 アフリカ人の特徴と言えば「陽気さ」です。
日本人の特徴と言えば「勤勉さ」です。戦後日本が欧米の民主化思想から学んだことはまさに「陽気さ」であったとも言えるでしょう。ならば逆に、アフリカ人に「勤勉さ」の中にある文化形成を身につけてもらうことは、お互いを補完しあうに有意義な展開になるはずです。
 島国根性と言えばグローバル化の時代に似合わない響きですが、海外から見れば日本人の感覚は村社会でしかあれていません。
その部分を欧米や中国が学ぶことはまずありませんが、そこのところをアフリカが学んだとしてもなんら不思議ではないのです。
 ゆえに、単に経済面からアフリカを第二の世界の工場や新しい有望市場の形成のように捉えるのではなく、日本のするべきことは、アフリカに自らの大陸で自立した内向きな巨象になってもらう発想もまた有りでしょう。
 それはまた、アフリカの自立・自己主張を促し、中国の勢いにくさびを打つ意味を含めて論じれば、そんな戦略も描けるかと思います。

 とはいえ、アフリカが連合して、欧米諸国や中国の資本と渡り合いつつ、自己主張をするに至るには、コアとなる精神を台頭させたリーダー国の存在が必要です。
「今、アフリカにそんな国家があるのでしょうか?」
 今のアフリカは中国経済を手がかりに、なんとか古き暗黒時代の記憶からおさらばしようとしている段階に思われます。
 しかし、何も学ぶことがないままにアフリカが資本主義を受け入れるままにあれば、いつまでたっても先進国の顔色をうかがうばかりの立場から抜けきれないままに陥るのです。この感触はまさに日本とアメリカの関係そのものです。
 それゆえに、アフリカ連合視野での自己主張には、新たな精神性の台頭が欠かせません。そのとき陰で立役者になれるのは日本であると思います。

 しかしながら、日本の今の政治は、未だに欧米色の姿勢を崩さず、外からの学びを輸入するばかりの発想でしかあれていません。これではアフリカ諸国は勢いのある中国に着くしかありません。少なくとも暗黒時代に嗅いだことのあるニオイとは異なります。
 それでも中国とアフリカの関係を対外的にも公平な形に仕立て上げてゆくには、日本も独自の政治力を発揮すべきとなるのです。それができなければ、日本の経済はどんどん中国に押されて沈んでゆく姿しか思い描けない、誰しもの想像の範疇に収まってしまうのです。

 日本が生き残るためのキーワードは、中国でもインドでも東南アジア連合でもなく、実はアフリカを内向きな巨象に仕立て上げることなのです。

 とはいえ、アフリカの足取りには多くの課題が残されています。
そこに残された臭いはどことなく東南アジアに残っている臭いと同じです。
東南アジアでの日本の立場確立もまた重要であることに違いはありません。

 そして、まだまだ時代の流れは急加速して行きそうです。
「アフリカが連合して自己主張を始めると中国がこける」という‥理屈では成り立つ感覚でも、政治はしょせん総意の成り立ちです。
以前なら、総意を創り上げることが政治家の手腕として問わた時代でした。
「今はどうでしょう?」‥今も同じかもしれません。
 しかし、日本の政治が如何にして独自色を世界に示せるのかを問うたとき、総意を示すのは有力な政治家個人ではなく、民衆の意識の向く方向が自然と一致してゆく形であったとしてもおかしくないのです。
 といっても、中国によいしょする発想ばかりが目立つ点は懸念材料にしかなりませんけどね。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 17:31 | Comment(0) | 中国読み | 更新情報をチェックする

2010年05月16日

福の神のツボ

 福の神のツボとタイトルを読まれて何を思われたでしょうか?
まずは「感謝」と「ありがとう」とが挙がると思います。
 しかし、神様にとって何が「ありがとう」なのでしょうか‥
神の教えの基本形として、これら感謝の姿が福そのものであるとすれば、福の神自らがそのようであらねば筋が通らない話になるのです。
ゆえにそこにツッコミを入れればこうなります。

「本日も誠良き功徳に良き計らいをさせていただきありがとうございました。」

 いかが思われたでしょうか‥
それもこれも足下目線で世の中を見回せば、すべてが大木にしか見えません。
靴の先にカメラを取り付けるようなちょっとあやし気なアングル観ですが、そのぐらい下から周りを見渡せば、自然と上を見上げるしかありませんから、すべてが大木にしか映らないわけです。
 そこに気がつけば、それこそが福の神のお得意な視線であると言えるのです。
「みなさんたいへん立派な方ばかりです。」‥なんてね♪

「ではなぜ、我々人間には、そうではない上から目線のような神像が植え付けられているのでしょうか?」
本日は、そこを哲学してみたいと思います。

 {村社会}≒{封建社会}であるとき、弱い立場の者が不運にも強欲な長の傘下に置かれてしまったとき、何があろうとも申し立てることも聞き入れられず、長のご機嫌よろしくな一方的な言い分にさらされます。そこには希望など見あたらずに、泣き寝入りな人生があるだけかもしれません。
 一方、{村社会}≒{合議制(民主主義)}であるとき、弱い立場の者は程度救いの手をさしのべられても宜しいように考えられているのがお互い様の世界観なわけです。

 ところが、この構図の本質には、社会的な安定と不安定が絡むことを忘れてはなりません。
 社会が安定すればするほど、本質において封建社会であろうと民主社会であろうと、格差は固まって行き、そこに築かれる体制的な癒着や馴れ合いは、どのように工夫をしようとも不本意な甘さを生じさせる要素にしかならないのです。
そして言わずとも、極端な不安定の場合でも同様の現象に転じます。
 その反対に、不安定にさらされる要素が拭えない上での安定と不安定との適度な繰り返しであれば、協力し合うという必然性が「生きる」という直接的な問題として常に問いかかってくるわけです。その結果、合議制であることを必然とさせます。一人の知恵で追いつかなければそういうことです。

 これら2つの要素を振り返ってみたとき、人間の意識の中で無意識に安定ばかりを求めるあまり、知らず知らずのうちに、自らが上から目線となり、体制主義的な長いものに巻かれるのが得策とする考えや、強い者に付くのが当たり前のような意識が根付いてしまっていると言えるのです。反対に、不安定すぎても同様です。
 ゆえに、そこにおわす神は「良きに計らえ」とは言われるでしょうが、しくじれば実力主義な裁きを下す威厳の神像となるのです。

 では、「本日も誠良き功徳に良き計らいをさせていただきありがとうございました。」とおっしゃるような神様はどうでしょうか‥
 福の神の立場上、そんなことを直に言ってしまうと人間の学びにならないので、ポーカーフェイスを決め込んでいる事に他との差はないわけですが、福の神自ら日々そのような心懸けで生きているのがふつうであると、人間側でそう思えなければ人間は本当の意味で感謝を学んだとは言えないのです。
 そして、安定よりも、幾分不安定を含んでいた方が、人間同士で上手く行くというのであれば、そちらの方を人間に与えるというのも福の神の知恵と見るべきでありましょう。
 だからこそ、上手く行ったときは、人間もまた「本日も誠良き功徳に良き計らいをさせていただきありがとうございました。」と自らが福の神に通じた言葉を唱えることになって行くのが福の神のツボなのだと思います。
 会社の社長で言えば、「今月もまた社員の皆様に十分な給与を出させていただき誠ありがとうございました。」‥みたいなところでしょうか。


 しかしながら、言うは易く行うは難しです。
なにしろ人間はひねくれてしまうと、長いものに巻かれたいとも思いませんし、強い者に付きたいとも思いませんし、強くありたいとも思いませんし、感謝もくそもへったくれもありゃしません。放っておいてもらいたい世界観に出入りしてしまうのです。
 そしてそれは誰しもに起こりうる人間としての性質です。
そこに恥じる必要はありません。安定と不安定の繰り返しに知恵ありとされているのであれば、それも然りだからです。最後の節目よろしくな気持ちのあり方としての感謝、その時同時に生じるであろう新たな視界の獲得‥そこにこそ福を求めるべきなのでしょう。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 21:49 | Comment(0) | その他 | 更新情報をチェックする

2010年05月10日

農業に検定免許制度を導入してみよう

 大量生産大量消費を軸にした資本主義経済下での農業では、価格競争に陥るばかりで、農家人口を増加させることは適いません。そもそもそのようなやり方の思惑の中には「土地のない国家は農業をするな」‥と言った類の資本の囲い込み性があります。
 一方で、昔ながらの土地の世襲制を元にした農業では、後継者を育てることが血筋同士で成り立つという信頼性から、農地転用に対する懸念をそれなりに避けてこられたという側面はありましたが、民主化における部外者からの参入には慎重にならざるを得ないという農家側の反論に見舞われるのが実際です。
 つまり行政がどのように取り組もうとも、実際に農業を担おうと志す者に、農地を所有する農家から信が得られなければ農地を貸してももらえないわけです。そのようであれば農業を営む新たな当事者への所有権の譲渡もしくは移動など起こりようもありません。

 ここに時代的な背景として、農家ながらの壁を気に入らないと思い、そこにある土地を経済的に有効活用したいという資本家の思惑が重なれば、それはそれで価格破壊による経営不能と跡継ぎ不足が社会現象となっても不思議ではありません。
 それがそのままにあれば、農家は不本意にも農地を次々と手放すことになり、結果として農耕適作地の死活的な摩耗は時間の問題となって行くだけです。
 その上、消費者の意識に「食べ物は気楽にお安く手にできて当たり前、それが経営の主体性と民主化の成果である」‥というような間違った文化観が定着してしまえばなおのこと‥ただし、それで食の安全・安心が担保されるわけではありません。
 そして、これらの流れは資本主義を万能と錯覚すればこそ、どこの国家でも起きてしまう現象なのです。


 そこでまず、民主社会である以上、農家が培ってきた知恵を世間に幅広く伝え、それを学び合える機会と子孫継承して行くための取り組みが農家の側に必要だと考えます。
 農家の側としても、きちんとした繋がりと知識に裏付けされた人材であれば、身内以外にも土地活用における許容範囲を広げてみてもかまわないと納得できる制度が求められるわけですが、それを形にするための発想として、農業の検定制度を一つの在り方として捉えてみました。
 時代的な動きとしても、漢字検定であれだけの人気が出たのです。
ならば農業知識の検定も有りだと考えてもなんらおかしくありません。
 とはいえ、この課題として持ちあがるのは、種目毎の知識がまったく異なる点です。
種目毎に育て方が異なる知識を総まとめして農業全部を対象に、「どれだけ知っていれば一級とか二級とかの境目を設けられるのか?」という疑問と同時に、「そんなのは農業ではない」‥という意見も生じてしまうでしょう。
 そして、そんな知識の有無を持ち出した所で、実体験の伴わない人に農地を任せたいとはならない‥そこで、検定制度と免許制度を組み合わせた検定免許制度というのを考えてみました。


四級のb…ある一定の指導の下で自家菜園等をし、収穫までをこなした経験のある者。
四級のa…四級のbに基づいた経験が継続五年以上ある者。農家出身者を含む。

三級のb…独立せず農家の下積み働き等で、一種目以上の一定の規模生産と一定の収穫量を年間を通して学んだ経験が継続五年以上ある者。農家出身者を含む。
三級のa…種目毎の検定試験で五種目以上の合格を得た者。もしくは、農業の学校を卒業し同等の資格を得た者。
・ただし、三級のa該当者は三級のbを満たす用有り。
是により検定試験で合格しただけの者や農業学校を卒業しただけの者で、継続して農業の道に進まない者を「みなし三級」という呼称に留めるものとする。
・三級を満たした者をとくに三級資格者及び農営資格習得者として扱う。

※5種目の中に必ず1種目は穀物でなければならないとするかどうか、5種目でいいかどうかは政策上の見解であり、個人の意見の限りではありません。
※5年という期間の提案は、人付き合いの長さを考えてみたとき、3年では経験的に短いと思いますし、かといって、6年以上ともなると馬が合わなかった場合などはかなり辛いと考えれば、5年ぐらいが適当かなと思った次第です。
※是により、行政は3級資格者を農家に紹介して行く形となり、農地の都合を計らうことが個人レベルでも行いやすくなると思われます。


二級のb…自立した経営を行い、年間を通した生産経験を五年以上経過した者。
・ただし三級を満たす用有り。
・農家出身者をはじめとしたみなし三級の者が、個人の都合により三級のbとの同時進行である場合、自営の栽培種目には別のものを選ぶ用有り。
・二級のbを満たす者を農営適格者として扱う。

二級のa…二級のbを満たし、身に付けた知識をきちんと第三者に伝えることのできる指導能力を持つ者。
・指導能力の確認には二級向けの検定試験を加味する。
・二級を満たし農地を得ているものを農家として扱う。
是により、農地をすべて次代に譲った者は農営適格者と格下げに到ってしまうわけだが、一級資格習得者はそのまま農家と見なす。

※農営適格者と農家の呼称を意図的に区別する狙いは、数十年と農業を営んでいながら、農地を譲ったことで農家を名乗れないのは明らかに農家としての恥だと思えばこそ、一級に到らなければ農業を営んだ甲斐がないとなります。
 と同時に、利益主義に走ったがゆえにしでかした不祥事等を事前に戒めておくための処罰的な意味合いを含めればこそです。例えば農営に関わる不祥事を犯した農営適格者もしくは農家には、一時的に一級の資格を取り下げたり評価適応を遅らせたり、ペナルティーを回復するための試験や実務を課すなどです。


一級のc…同一種目におけるありとあらゆる栽培法選択肢から一定基準の品質を常に維持できる知識と能力を持つ者。一定品質以上の収穫をこなせる者。もしくは、臨機応変に新しい栽培法を検討できるまでに能力を身に付けたと認められる者。
・是に日光栽培と照明栽培との違いは含まれるが、DNAを直接いじるようなバイオ技術を前提とするものを除く。
一級のb…一級のcから一つ頭秀でて、新たな品種を生みだしその栽培法とを確立させた者、もしくは従来品種における栽培法で画期的な農法を見出した者。
・ただし、是は自然栽培法が重視され、室内栽培法での検討は含まれるが、DNAを直接いじるようなバイオ技術やバイオ技術者を除くとする。
一級のa…一級のbを満たし、別格で名人評価に値する者。文化財的表彰。

・ただし、一級評価は二級評価と異なり、種目毎の評価と見なされ、農業力全般に対する評価とは限らない。
 それでも農家の評価として十分に成り立つわけであるが、このようにルール決めすることで、あらかじめ若いうちにまとめて多くの種目の基礎学習を身に付けてしまった方が都合が良いとなり、検定試験からの農業参加でも一種目だけを学べばよいと言うような安易な風潮にいたらずに済むものと思われる。
農家であれば至極当然の在り方と言える。


「さて、四級はなんのために必要なのでしょうか?」

 まず、みなし三級を目安に募集をかけた場合、四級という表現は農業に対する経験の度合いを確認するための手っ取り早いきっかけになる所でしょう。
ただし種目が該当しなければお話にならないと思いますけどね。
 この時、三級のbに見られる経営の下積みとしての評価基準をどう位置づけて行くかを考えた場合ですが、検定試験の立場を考えれば、どうしようもないほど下積みの評価は、検定試験合格基準よりまとめて格下と見なすしかありません。
 本音は逆にあると思いますが、農業知識の共有こそ大前提とすれば致し方のない所だと思います。逆から見れば、それで三級のaだけが幅を利かせているようでも、どれぐらいの思い入れがあるのかを判断しにくいわけです。

 また、実体験に対する評価をより確かなものとして行くためにも、農家は新たな取り組みに踏み出す必要があります。
その時、農業四級塾というものを提案できれば都合が良いはずです。農家同士でそのような取り組みをして四級評価を持ち上げてしまえばいいのです。
 さすれば、引退した農家の方が農地を手放すことなく、三級資格者を雇い、自分家の農地を活用して農業塾を開けば、自分の体が利かない分を三級資格者に程度任せることもできますし、塾の授業料を引退後の収入源とする手立ても考えられるわけです。
 塾の先生を必ずしも農営適格者や農家でなければならないとあえてしないのは、その塾にやって来るのが小学生であれば、託児所の延長としての活用も考えられるからです。
 つまり、検定合格者を目安に塾講師の募集をし、その立場の人が塾で先生をしながら同時に農業の見習いをしているという感触が得られれば申し分ないわけです。

 託児所機能で考えれば、出てくるおやつは自家栽培で無農薬、スーパーで売っているのや、市販のお菓子とどう違うのか、そんな食育の場としても有意義に思われます。
 農業を引退した農家であれば、農地を転売させずに授業料で三級資格者を雇って農地を維持でき、なおかつ、その環境下から農業を継ぐ者が数多く出てくれれば、塾機能としての信用も参加メリットも確立して行けるわけです。まぁ狙いはそんなところです。
 その時の政策上の支援としては、四級塾経営者であれば、農地活用に関わるなんらかの免除や支援が得られると言ったところでしょうか‥

 何かと借金を前提とした農業への道を推進したところで、経営が成り立たなければ持続できないのは当然です。その上、始めから借金を抱え込む事が前提にあればリスクばかりが目立ち、誰も農業をしてみたいとはなりません。
 その時、検定試験に合格した上で、ますます農業に興味を抱いた者が、自家菜園に飽きたらず、農家との接触を試みたとき、塾講師という選択肢があれば、見習いにもなりますし、場合によっては講師を引き受けながら人柄に信用を得て、農地を貸してもらえる、もしくは、そのまま譲り受けるような状況もあり得るのでは‥と考えてみた次第です。

 さて、二級のaはどうでしょう‥口べたな方の多い農家にしてみれば、大問題かもしれません。
 しかしながら、検定制度に指示が集まりその手の書籍が増えれば、いやでも農業の指導書籍がいろいろと出版されることになりますから、農家も口べたなままでかまわないというわけにも行かないでしょう。腕はあるけど口べたな農家の方も、素人への教え方をいろんな角度から学べる良い機会になるはずです。
 それも是も、プロ同士の講習にはない素人向けの教え方というのは、農産物の販路開拓以上にこれまた特殊な能力だと思えばこそです。
 実際、農家はそのあたりの取り組みを何もしてこなかったし、農政もそこに目を向けずに一次産業をおろそかなままで繁栄を謳歌できると錯覚して来たわけです。

 そして、このような検定免許制度の考え方は教師や医師の質の維持の在り方としても応用の期待できそうな中身にあると思われます。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 18:30 | Comment(0) | 破棄処理中 | 更新情報をチェックする

2010年05月07日

「詰め込み」or「産み出し」

 エネルギーの流れは一定方向であった方が安定度は増します。
多方向への流動が如何に制御しづらいかは、その手の技術屋さんならすんなり頷けることだと思います。

 これを人間の思考で言えば、「詰め込み」と「産み出し」です。
単に「記憶」と「発想」と言ってしまってもかまわないと思います。
 つまり、覚えることに意識を傾ければ発想というエネルギーから遠ざかるのです。
その逆として、発想に意識を傾ければ記憶という作業はお荷物になります。
 それでも、一流の科学者のレベルにもなれば、一度見ただけでピタッと覚えてしまうような話もあります。まぁそれはそれです。そこで、覚えることにエネルギーを浪費しなければならない凡人クラスでしかないのであれば、どちらかを切り捨てた方が都合が良いと言えるのです。
 ただし、覚えることを捨てれば捨てるほど、集団生活ではバツが悪く格好が付かないのが日常です。「そんなことも知らないのか!」‥という具合にね。
 そして日本人のDNAは日々淡々とするべきことをすることで、無駄なく記憶と発想とがステップバイステップで身につくように設計されていますが、人間の好奇心というモノはなかなかにそう言うわけには行かないようです。
 安定を望めば望むほどに保守的となり、その武装的な発想として「記憶」という作業にはまって行くのです。自分の頭が生まれ持った以上に記憶力が望めないのであれば、記憶を酷使するのではなく、発想にも向き合わなければなりません。

 この発想と向き合おうとするとき、壁になるのが感情です。
DNAに刻まれたありとあらゆる記憶が、感情を鍵として吹き出ようと始めるのです。この良い例が恋愛です。新しい何かを産み出すことができなければ前に進めないという典型的な形です。好きと嫌いだけでは空回りするだけです。
 戦闘においても生き残るための重圧がそこにやって来て、様々な感情を排除しながら最良の選択肢を選び出す‥でなければ生き残れません。是もその一つの形です。
 つまり、記憶という作業は感情をストップさせている状態ですが、発想という作業はこの逆をする作業でもあるわけです。
 必要と思えないところに感情は生まれません。ゆえに発想も生まれません。
平坦な日常ばかりの心境が平和で一番であったとしても、発想を身に付けたければ、空想的な空間で感情の負荷を克服するようなトレーニングを積むか、現場で死や恥と向き合いながら自分の中の何かを克服するかのどちらかです。他に方法はありません。
 歴史に「もし」を持ち込みたくなるのもそんな思考の一部なのです。

 本の読み方一つにしても、詰め込んでいるのか、参加しているのかの差でどちら側にエネルギーを発散しているのかの違いが生じます。
速読がもてはやされる一方で、考えながら読んだり反芻したり読む習慣を持つこともまた無駄ではありません。
 ただその時、感情を絡めて考えているかどうかが重要です。なぜならそれが経験したという実際の体験と程度似たような効果をもたらすからです。
 そのポイントは、自分であればどう思うかです。
次に自分に様々な条件を与えてみて考えを膨らますのです。その蓄積の結果、自分の立場以外からの視点や着想が湧くようになればしめたものです。そこでも様々な感情の在り方の活かし方を問うのが鍵なのです。
 そのとき、日常の基礎知識や常識が深ければそれだけ立体感のある思考になって行くわけですが、そこに思い込みや個性があればどこまでもそれはついて回ります。
 発想のオリジナリティーにこだわればこだわるほど、行き着くところは墓場や牢獄で天国を語れるような境地の想像なのかもしれません。そんな人は普段どんな思考をするのでしょうか?
 ふつうに暮らしていられれば満足な人にそんなことはどうでも良いことでしょうが、発想とはそんなどうでもいい感情から成り立つ選択肢を知りたいと思うような好奇心の積み重ねだと思います。ある意味変態なわけですが、人とは違う奇妙な部分は、実際誰にでもあると思います。
 お互いがそこに気がつくだけでも、今までとは違う発想の糸口になれると思います。
マンガの世界観なんか良い例でしょう。


 たとえば、ネガティブとポジティブです。
ぼくの発想の中にはあえてネガティブな要素を排除している嫌いが見られます。
あえてしているわけです。
 すると戦争とか武装とか競争とか、なんかそういう野生の世界観のようなものをいつまで持ち込んでいるのか?‥という視点に映るはずです。
 特に平和主義と言うわけでもなく、国防論でガチガチの人から見れば、そこにある政治・経済の話の下りにおかしさがあるように見えてしまうはずです。
 しかし、あえて外してしまっていることで見えていなかったものが見えてくるはずです。逆から言えば、これまでの政治経済なんてものは、国防論でガチガチな世界観でしかないという事になるのです。

 「人間同士で敵視し合っているモチベーションて何?」

 答えは決まっています。思惑です。憎悪です。ゲーム感覚です。それとも団結への昂揚欲でしょうか‥答えの一つ一つは人それぞれ微妙に異なりますが、答えは決まっているのです。自分がその中のどれを請け負うかという違いがあるだけです。
 自分が作家になってオリジナルの戦争を考えてみれば明白です。
勝たせたい方をあらかじめ決めて描くわけです。その説得を後付で足して行くわけです。いろんな味付けがあるわけですが、結局の処、敵視させるためのモチベーションを維持してゆく感情がないと続かないわけです。
 続かないとそこから先がない‥そういう「恐怖」に煽られている‥それだけです。
恐怖をやっつけようとしてムキになっても勝敗などつきません。
 恐怖からは去るのみ。恐怖は捨てるのみ。それが、自分の思考や感情がその発端でしかないとわかればそうするしかないでしょう。

 そして、その先に保つべきモチベーションを発想できないがゆえに幸福は訪れない。いつまでも戦争よろしくな映像を見ながら、詰め込むことしかできないのです。
恐怖で一杯に詰め込んだ気持ちの拠り所を求めてわめき散らすぐらいしかできないのです。今度は俺がヒーローになってやる‥と言う具合にね。それだけです。
 絶望や恐怖から逃れたいという欲があれば幸福は訪れません。欺瞞や猜疑があればなおさらです。なぜなら、幸福にはそんな欲がないからです。

 今ここに存在するというそれだけの視点から、幸福であると思える感謝の気持ちにしか幸福は宿らないのです。
それが、至福には幸福が訪れると言われる波長同通そのものの見解なのです。
そこには恐怖からなる視点などどこにも存在しないのです。
ただし、慢性化してしまえば自ずと停滞は起こりますけどね。

 そこがわからなければ、政治と社会の空回りはいつまでも続く‥単純なカラクリですね。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 18:37 | Comment(0) | その他 | 更新情報をチェックする