2012年11月25日

【刮目】囲碁は「分け合うゲーム」or「奪い合うゲーム」

改稿.2015/09/16...20121125...

 囲碁を陣取りゲームと思えば、如何に多くの地を奪うかである。(相手の石の連携を絶つ)
 そう考えると、囲碁がそのまんま資本競争にも見える。(侵出先の地場の結束を破壊する)

 ルールに於いても
 囲碁は、勝つ為に、地数を数え、その損得を考慮して手を打たねばならない。


> しかし囲碁には、別の見方もある。


 囲碁の実力が伯仲していれば、嫌でも半目差にしのぎを削ることになる。つまり、
 囲碁とは、如何に相手と同じ地の数にし合えるかのゲームでもある。(相手の石の連携も考慮する)

 ‥そのように解釈を変えると、ぐるりと意識を変えざるを得まい。

 礼に始まって礼に終われるかどうかだ。
 半目差で終えられるかどうかこそが、囲碁の醍醐味とも言えることになる。(よりハードルが高い)


 接待囲碁が、「ヒカルの碁」に描かれていたが、素直にすごいと思った。
 プロがお客さんを相手に力量を推し量りながら、自分の地数と同じになるように計るのだ。
 ‥手を抜いていると言えば、手を抜いているわけだが、実力がなければそんな芸当は無理である。

 そうであれば、プロのトップクラス同士がしのぎを削り合って、
 互いの地の数が同じに至ろうなら、それはそれで美しいのだろう。(強くないから汲み取れん)


 実力が違えば差が付いてしまうのは当然だが、
 大差で勝とうなどと欲張ろうとする考えが、如何に生意気で傲慢にあるかは、述べるまでもない。
 ‥囲碁には、そういう見方もあると言うだけの話である。


> 囲碁のそこを人生の様々に置き換えると、実力が伯仲することは美しい‥ということでもある。


 ‥それはつまり
 そのような対局・対戦・対峙を普段から目にする為にも、
 互いに大差を望む考えは、ただ単に生意気で未熟にあるだけと心得るべきことになる。

 圧倒的な様を見るのも、見せつけられるのも、まぁ悪くはないにせよ

 ・お互いの持ち味を引き出す
 ・味わう
 ・乗り越える(叩き潰す)
 ‥としたそれぞれの過程にこそ面白さの妙がある。(マンガも同じ)


> そこが成り立つ為にも必要なのは


 個の天才でも実力でも努力でもない。それは、全体の場の空気だ。
 私たちの側が、社会の空気が、常勝に憧れるだけで一方的な強さを見たいだけなら、
 ‥プレイヤーの表情からして詰まらない結果をもたらす。

 とくにそれは、プレイヤーの心理に影響を与える。(述べるまでもない)

 プレイヤーは勝利してこそと誰もがそう思っている。しかしそれだけではない。
 ‥それだけではないとした空気が、均衡を保った状態にあるかどうかだ。


> それこそが、「礼に始まり礼に終わる」ということである。


 プレイヤー同士の実力の伯仲に見せられるばかりでは、とてもそうにはならない。
 プレイヤー側のモチベーションがどうあれ、私たちが醸し出す空気にも礼が求められるのである。


 ‥例えば、賭博はどうだろうか?
 あのような場は、誰がどう考えても奪い合う場でしかあれていない。
 そのような空気で占められている。(まぁ賭博はああいう世界だ)

 ‥近年のオリンピックはどうだろうか?
 昔以上の尋常ならざるピリピリ感が、映像を通しても伝わってくる程だ。
 昔はどちらかと言えば、もう少し楽しもうとの空気があったように思う。
 時代の経過と共に、すべてが興行と資本の価値観に偏っている。
 会場の作り方にしたって、そんな感じだ。


 「礼に始まり礼に終わる」を執り行う為にも、変えてはいけないところを変えてはならない。


 ‥囲碁を参考にしてみるとよく分かろうものだ。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 20:41 | Comment(0) | 刮目 | 更新情報をチェックする