2013年02月20日

【お知らせ】ブログ合体再構築検討中

1-3)0
> ‥なんか手違いがあったらしい。タイトルが‥まぁいいか。

 古い記事の整理と、詩・短歌その他に分けてたブログとの合体を考えると、もはや「民立主義へのVision」という看板では役不足になった。

 早い話が引っ越し‥否、新たにブログを構築する必要がある。
 コンセプトを新たにしないとダメと言うことのようだ。
追記
posted by 木田舎滝ゆる里 at 17:58 | Comment(0) | お知らせ | 更新情報をチェックする

2013年02月10日

【刮目】ブルース・リーの名言に挑戦!!

改稿.2015/09/17...20130210...

 曾て、ブルース・リーは言った。


> “Don't think.FEEL!!! It is like a finger pointing away to the moon.”
> 「考えるな、感じるんだ!!‥それは月を指さすようなものだ。」


 ‥ならば、著生も続くとしよう。

 喰らい尽くすは、即ち、何も与えずに等しき行為である。ゆえに、
 喰らい尽さんと欲した行為は、
 即ち、すべてが手に入るように見えて、実は何も身に付かない結果を自らにもたらす。


> 欲張るな、空(から)になれ!
> 学び切ろうとするな、信ずるところをやり通せ!
> 近づこうとするな、向こうからやって来る


 そうして、すべては丸く育まれん。
 ‥ただし、用の無き所に風は吹かん。

 「お前は風か?」

 腹一杯になっちまった風ほど役に立たぬモノはない。
 我々はそれを「無」と呼ぶ。

 為す必要がないから風は吹かん。

 それが自然にあると思えぬのなら、お前がそれを勝手に成さんとしているだけのこと。
 用の無きところに風は吹かん。努力努力と吹き続ける必要なんぞそもそもにして在らず。
 風が必要だと思うなら、まずは止むるべき時分をわきまえよ。
 ならば、吹くべき時分も同時に定まろう。然りして無為自然なり。


> 始めようとするな、まずは終えよ


 一つを終えておらぬのに、次は始められぬ。
 一つとして終えておらぬ者に、次など努まるわけがない。

 さすれば、無為自然である。

 終わりを知らぬ者に始まりは見つけられぬ。
 始まりを見つけた時、同時に終わりを理解した者は幸いである。
 道とは、始まりと終わりをただ貫いているだけなのこと。
 あとはその道を進めば良し。されど進む必要もまた無し。

 道はどこにでもある。道は様々だ。そして、私たちは一つの道しか選べない。

 同時にいくつもの道を行こうとすれば、必ずや迷うだろう。其は風に非ず嵐なり。
 ただでさえ、一つの物事をきちんとした形で終えられぬ者らに、
 「どうして、人の世の身勝手な資本の嵐をやり遂げられると言うのだろうか?」

 嵐が鎮まる時はそれこそ死なり。死ぬるのみ。
 死ぬに道なし。殺(あや)めるなかれ生かせよ。生かして渡りきるが道なり。


> 武士道の道とは、主君の道なり


 主君が家臣に死ぬるように事を強いれば、自らを殺める危機を招くだけの事。
 又、他を生かして自らを失っても良いなどと何の意味があろう‥
 「どこに挑戦があろうか?」
 己の信じた道を突き進み、そこに死が訪れんのならそれこそが本物だ。

 生き死にの境を踏んでそこにあったなら尚更である。(其は必ずしも勝つことに非ず)

 生き死にの境を踏んでおる者、即ち、始まりと終わりの筋道を踏んでおる者、
 即ち無為自然として道を行く者なり。

 風なんぞ無理に自ら吹かせんでもよろし。乗れば良きこと。乗る必要もまた無し。

 「降り方を知らぬのに、乗る馬鹿とは何ぞ?」
 「風を乗り切る力もないのに、煽られるままに乗ってどうする?」
 ‥降りられる場所とて、そうそういくつもあるわけでもあるまい。

 乗る場所もまた、そうそうにあるわけではない、故に‥人は迷いだす。
 ‥ならば姑息に為らぬように自らを磨かねば為るまい。


 道はいくつもある。風なんぞいくらでも吹こう。
 されど、行ける道は一つなり。そこに目が向かずに疎かな者に風なんぞ吹くわけがない。


> 「風を求めるな、道の先を見よ!!‥それは路端に厠を欲するようなものだ。」
posted by 木田舎滝ゆる里 at 06:39 | Comment(0) | 刮目 | 更新情報をチェックする

2013年02月02日

双方向out≦in転換レート方式の論 その2

1-5)0
 ではもう少し細かく双方向out≦in転換レート方式の流れを見ていきます。
(※≦‥小なりイコールと読む。)
追記
posted by 木田舎滝ゆる里 at 06:44 | Comment(0) | 双方向out≦in転換レート方式の論 | 更新情報をチェックする

双方向out≦in転換レート方式の論 その1

1-6)0
 基軸通貨の概念は、今や、植民地政策の流れの中に位置した過去形の経済観のままにしかあれていません。
 基軸通貨に国家の強さや象徴を求めても、それは、幻想的な景気演出を押し売るだけの詐欺師のマジックにしかならないのです。
 もはや、そのような詐欺手法による権利の奪い合いを原理と考え、未だにそれの覇権争い(基軸通貨選択)に思いを馳せるのは中毒症状にあると言えるでしょう。

 「GDP一番の国が、基軸通貨を担うべきである‥」
 そんな過去形の言い分を未だに引きずっている意味が分かりません。

> 我々はそこにあった毒に犯されてきたことをよく理解して、新たな枠組みを考えなければならないのです。


※(要点だけを知りたい方は、1-6)5へ‥読み飛ばし下され。そこまで長いっす。)
※(これは、以前の額枠生活禄方式の補正で考えていた内容です。)
※(‥謎かけの解答責任のことをすっかり忘れていました。お詫びします。)
※(これが、年棒型生活禄の場合に当てはまるかどうかは今一つ掴み切れていません。)
追記
posted by 木田舎滝ゆる里 at 06:43 | Comment(0) | 双方向out≦in転換レート方式の論 | 更新情報をチェックする