2014年08月05日

【刮目】村社会VS.コモンズの悲劇(勝負付いてます)

1-4)記稿.2014/08/05
 オイコノミヤで「コモンズの悲劇」とやらを紹介していた。
 それを見ていて、ぶったまげちまったので書いておく。

 稲作型村社会で普通に成されてきた次第を、
 欧米の経済学では、不可能だという見解で一致していたという事実である。


> まぁ、お前等が大事とする資本主義からすれば、悲劇にしかならんだろうな。


 ‥さらに、ぶったまげちまったのは、
 コモンズの成功例を論文にして発表した学者がノーベル賞を貰ったという話。

 そんなことぐらいの紹介でノーベル賞になっちまうんだったら、
 まともな村社会を営んでいた昔の人々は、資本主義より上だって賞賛したようなもんだ。

 ‥しかし、村社会を認めないのが資本主義である。

 だから逐一、難しい表現にして、まくし立てるのだ。
 それこそコモンズの悲劇だと言うのに‥
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posted by 木田舎滝ゆる里 at 22:05 | Comment(0) | 刮目/2014 | 更新情報をチェックする

【刮目】愛だ自由だは装飾、礼こそが土台・柱である

1-4)記稿.2014/08/05
 どんなに贅を尽くした建物でも、土台が傾けば誰も近寄らなくなる。
 愛だ自由だとの論は、それと同じ、礼こそが土台であり柱たり得る。
 ‥他を敬わぬ社会に平和など訪れようもない。

 戦の時代にもなると、

 誰しもは反発的になって、愛だ自由だと口にするものだ。
 しかし、平和が訪れても同じように愛だ自由だと口にした所で、
 争いの種にしか成り得ていない点を指摘する声はほとんど見られないのである。
 (それこそ、甘えも好いところのやりたい放題がしたいだけじゃないか。)


> ここにおいて、愛だ自由だの論に限界を覚えざるを得ない。


 「‥平和を望むなら、自らを律して、礼を唱えよ!!」
 でなければ、いつまで経っても愛も自由も手に入らないのである。
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2014年08月04日

【アイデア】蹄鉄を進化させてサラブレッドの骨折を減らせないか‥

記稿.2014/08/04


 なぜか蹄鉄は古代から何も進化を見せていない。
 人間で言えばシューズである。

 シューズが進化したことで得られた恩恵は計り知れないというのに、
 サラブレッドを始めとした蹄鉄に、さほどの変化はないようだ。


> 振動吸収材を間に挟み込むことで、馬だって走りやすくなるのではないのか?


 そこから得られる成果は、節足歩行型のロボットの足元にだって応用が利くはずだ。

 しいては、

 二足歩行型ロボットにおける振動吸収を考えた時、
 どこをどう改善すれば、効率が上がるかという発想にも繋がるだろうか。


> 戦場において、また、外地を移動する場合、
> 蹄鉄が鉄であったことは、強度を考える上で適当な素材だった。


 しかし

 アスファルトの上を歩くとか、
 競走馬の足の保護を鑑みた時、
 鉄という素材はもはや適当ではないと考えても良いほど、
 卓越した技術力があるはずだというのに、ちっとも進化を見せていない。

 まさに、目から鱗の視点である。

 骨折しないように、インナーを着せ合わせてみる解釈等も含めて、
 検討してみる価値は十分にあると思う。

 人間の欲望に付き合わされて、ついつい馬同士で熱くなっても、
 一度折れたら二度と走れませんなどという有り様は、あまりにも勝手すぎる。
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【日記】礼こそ日本の本質、しかし‥

1-3)記稿.2014/08/04
 礼こそ日本の本質、しかし‥

 奇しくも、それは孔子に始まった儒学の影響を模したままの輸入文化‥
 日本の本質が礼であるにも拘わらず、言葉においてオリジナルが無い。
 (有るのかどうかさえハッキリしないのが正直な所だ。)


> ならば詩人として、整えようじゃないかという次第になっているらしい。


 ‥らしいというのは、著生の個性の枠から飛び出している次第を意味する。
 なにしろ、礼とはほど遠く、適度にチャランポランなのが著生の本質だからである。


> 是に関しては矛盾もあるだろうが仕方がない。他に適当な人材が居ないと見られる。
> 文句があるなら、その前に礼を吐け!!
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posted by 木田舎滝ゆる里 at 12:14 | Comment(0) | 日記/2014 | 更新情報をチェックする

2014年08月03日

【詩】礼を求めて人の間に在りけり

記稿.2014/08/03
> うた詠み始めます。よろしくお願いします。

礼を求めて人の間に在りけり

礼を求めて人の間に在りけり


 礼問わば、無礼を知らずして為らず

 礼、為さざるは為さざる者を招くのみ

 礼、自ずから立てずして薫ること無し

 礼、自ずから差し出さずして人を得ず

 礼、汝の器知らずして満ちること無し

 礼、自ずから平に為し続けて始まる

 礼、向き合いの数だけの自在ありけり

 礼、常に自ずから汗して立てり

 礼、自ずから尽くさんと欲すらば無常とて礼なり

 礼即ち、自ずともてなさんとして命の渚に生くるる


> うた詠み終わります。ありがとうございました。
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2014年08月02日

【刮目】日本人として人付き合いが面倒に思うその理由

1-3)記稿.3014/08/02
 礼を知らざる者同士が付き合うと、大抵ガラが悪くなる。
 礼を知らないのだから当然だ。


> もし、人間を計画した側がそれを見越していたとしたら


 見越しているぐらいなら、礼を心得た存在であるはずである。
 否否、それ以上に、礼を教えたくてしょうがない存在なのかも知れない。
 ‥だとすると、こんな定義が思い浮かぶことになる。


> 地上とは、人間とは、人生とは、礼を学ぶための劇場である。


 「日本と世界の違いを思うにそう思わざるを得ない!!」
 「繰り返す‥神道は宗教に非ず、神道は神道である。」


 ‥日本人として生まれてきたなら、まぁそこん所のしんどさは忍(お)して諦めるべし。
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posted by 木田舎滝ゆる里 at 22:40 | Comment(0) | 刮目/2014 | 更新情報をチェックする

2014年08月01日

【論点】{本能}>{理性}でないと生命は機能しない

1-5)記稿.2015/08/01
 人間性としては、本能より理性が優っていた方が良さそうだが、
 それでも、本能と理性に、大きな違いなんか無いのだ。


> 違いに差があるとすれば、それをもたらしている因にこそ焦点を当てるべきである。


 そこで、本能にしろ、理性にしろ、
 何らかのスイッチが入ることで機能するという定義をしてみよう。
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posted by 木田舎滝ゆる里 at 22:34 | Comment(0) | 刮目/2014 | 更新情報をチェックする