改稿.2014/12/01...20141015...
> 競争が必要なのではない、継続的取り組みが求められるのである。
信号ルール無き交通が、言い合いと事故多発しか生み出さぬように、
継続的取り組みにしたとて同じことである。
「公平と安全が成り立たないのでは、活動どころではないのだ。」
‥もう一度繰り返そう。
私たちに豊かさをもたらす研鑽とは、競争の前提では無い、持続的取り組みこそが前提である。
公平と安全の確保された取り組みへのルール作りが求められるのだ。
「豊かさとは‥豊かさを貪ることへの推奨ではないのだ!」
> あとは‥私たちがそのルールを気に入って、守るかどうかである。
> 全体として、たのしく無理なく倦まずに取り組めるかどうかである。
「赤信号は待つ」というだけの極単純な交通ルールでさえ、守らぬ者は守らぬのだ。
被災等で社会状態が麻痺して、
皆で強盗やギャングまがいの行動に出るばかりなら、
いつまで経っても、世界平和など夢のまた夢である。これは同じことである。
> 社会と経済に求められる信号とは、自由ではない、”礼儀”と”道徳”である。
絶対王政で植え付けられたのは、王による搾取であった。
王によって安堵された民衆への飢饉対策ではなかった‥
いつの間にか、王族をはじめとした貴族の安寧のみを機能させるだけの搾取でしかなった。
‥飢饉困窮時の蓄えを、余り物と勘違いして、贅と戦に用いられてきた。
そこには、”大衆”=”奴隷”=”捨て石”との見下したものの見方しかなかった。
‥愚かにも、民主化して尚民衆は、
その搾取の在り方の方を、もっともだとして歩んだのだ。
それが、そもそもの資本主義然として突き進んだ産業革命以降の世界の実際でしかあれていない。
それもこれも‥
競争×能力主義×個への分化こそが、幸福の追求された形だと勘違いしたからである。
自分たちの忌み嫌った貴族の在り方を、贅の手本としたからである。
‥それでいて、傲慢にも
王家に刃向かう謀反の正当化と、王に善意は存在しないとする前提での物の見方がそこにあった。
王に善意がないのだと言わんばかりでは、人間不信でしかあれないではないか。
まさに、人間不信が生み出したそんな程度の民主主義しか成し得て来なかったのだ。
(それの鏡似性がそこにあらんばかりだった‥)
> つまり、
搾取されずに前進する上でのルールを、民衆はまったく理解できずに至っただけである。
知っていたとしても、理想とするルールを愚直に守ろうとする気概に欠いていたことになる。
「それはなぜだろう?、どうしてそうなったのだ?」
‥人類は今一度、そこの違いから学習し直す必要がある。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 12:44
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