記稿.2014/11/30...20141006.20090701...
今の世は、生きていくのに、
「より幸福により幸福に」と‥実際の所、幸福に対して盲目でしかない。
> そうであろう。
その結果がどうだ、無用の幸福観で溢れかえっておろう。
否否、不幸観と言った方がしっくり来るであろうか。
どうして、あれもこれものデザインが欲しいのだ?
それを集めてどうしようというのか?
その挙げ句の果てが、居もしない理想の相手を欲することになる。
居るか居ないかも分からぬ者が居るだろうと妄想することが幸福の追求なら、
幸福など実際的な形として無くても好いと言うことだ。否否、何も要らないと言うことか。
‥それはそのままに、いくらでも願いが叶っているようなものではないのか。
> 有ればあるだけ欲しい、無ければ造り出せば良い。
その自由気ままを実現するにしても、人は自らを消費者に追いやるばかりに夢中だ。
一方の生産者にしても、造らされることに偏っている。
それで、どうしてお互いに幸福感を満喫できるというのだろうか。
自分が成せる範囲の偏りを有している様は、どうしたって未熟だ。
「未熟こそ、不幸の始まりもしくはなれの果てとは思わないのだろうか?」
幸福観の違いがそれぞれにあるとは言え、
自分で出来る範囲を拡大させるには、多くに関心を抱いて、それぞれの経験を積むしかない。
‥人と出会い、学び、培える自由な在り方こそ財産だとは思わないのだろうか。
> 何か得体の知れない贅沢への逃避願望など、ただの屍に過ぎぬ。
勝ち逃げするにせよ、その先に未来があるのかどうかさえ怪しいではないか。
どこに行こうとしているのか定まっておらぬ輩を、放置しておけないのが宇宙でもある。
‥なぜ、人にあれているのかの不思議をもう少し考えて、幸福の探求をすべきである。
「人の暴走は、宇宙のリスクでしかないのだから‥」