記稿.2014/12/29
> 信教の自由を、もっともそうな顔をして‥一神教を信じる。
‥其はどう考えてもおかしな状況である。
信教の自由とは民主主義の精神に基づいているのだから、
どう考えても多神教の理解で有らねばおかしい。
・一神教を信じるがゆえの盲信
・他教の排斥
・自分たち戒律のみの押しつけ
‥といった諸々に教えを畏れる重圧が、人種差別の根源をもたらすのだ。
そもそもはかような状況を好ましく思わないからこそ、
事前に、事態の発生を避けるが為の法律が「信教の自由」でもある。
なにも自由の意味合いのみが先行して、承認されているわけではない。
> だから、信教の自由とは、始めから争い事の放棄宣誓を求めているような次第でもある。
ところが、実際の日常意識の中にそのような考えは乏しい。
それは、教えをどう考えるかが、そもそもにして多面性にあるからだ。
一方で、多神教の教えの中にも、根本神の考えを示す見解がある。
これでは、誰もが混乱してしまうのは当然だ。
‥されどそれは、
宇宙を一つの法則で語れるだろうとの考えにすぎない。またそれは、
統治者は指示を降ろせども、自ら進んでは何もしないのが相場であるのと同じである。
> 科学、一つ挙げてもそうだ。
どの方向に科学を用いるかは、哲学であり信心である。
一方で、科学が科学として、一つの法則を貫いていると考えること自体に問題はなかろう。
しかし、その上で、その科学的法則をどう用いて役に立てるかは、私たちの問題なのだ。
ならばそもそもにして‥
一神教を信じる形の中に、民主主義との矛盾を抱え込んでいることに気がつかなければならない。
尤も‥
一神教に縛られていなければ、
その人自身の心の中では、如何なる神とて、多神教の中の一柱と捉えられる点も忘れてはならない。
‥その点に於いて、信教の自由とは、心境の自由の了解でもある。