1-1)記稿.2015/02/05
厳密に言えば、表現の自由には肯定も否定も含まれる。
極端を言えば、最悪の表現は戦争である。
リアルの戦闘もまた表現の自由の範疇だ。
そう考えれば、表現の自由に賛否など無用だ。
そこには、表現の空気があるだけだ。
その者の表現の中にある空気が好きか嫌いかでしかない。
誰かの好きか嫌いかを、逐一あれこれ言うことに何の意味もない。
そこに何かがあるとしたら、討論したい空気があるだけだ。
そもそもの争いの種は、常に表現の自由もとい討論の自由より始まる。
何かの好きか嫌いかを火種に暴走することは、もはや表現と見なされることはない。
それは‥単に闘争欲か殺意である。
‥言うまでも無きことだが、闘争や殺意を題材に何かを表現する意味での空想は勝手である。
そしてまた、してはいけないとした倫理や道徳を含むべき諭旨は、
表現の自由でも選択の自由でも無い、人としての根っこである。
人としての根っこが壊れていると判断されれば、表現どころか存在そのものに係わることだ。
言うまでも無きことだが、壊れた存在性をひっくり返せるかどうかに挑戦する生き様は勝手である。
そこまで腹を括り他者の生き様を見つめてから‥表現の自由を口にすべきである。
‥尤も
そんな身勝手な生き様は認められない。
表現の空気に鈍感でなど居られないのだ。
↓/続きを読む/↓