2015年03月23日

【詩】データと可能性

記稿.2015/03/23

データは可能性ではない、データは日常性である
ただし、日常性(ビッグデータ)から正しい見方ができるかどうかは「可能性」である

可能性に好き嫌いがちらつくようなら、それは偏った見方である
可能性の奥にある姿が、今現在の肯定であるなどとした保証はどこにも無い

可能性を計る以前の課題として、己の器を知り丸くすべきである
器の歪んだ者に、正しい見方を得るよすがなど始めから無いのだ

そして、器が丸くなればなるほど、可能性について無口になろう
なぜなら、そこここに垣間見る現実性こそが、あるがままの容認だからでもある


‥賢者曰く

「私心を投じるに非ず、認めるに有り」
「私からは、私以外の解釈は生じ得ないのだ」
「私たちからは、私たち以外の解釈は生じ得ないのだ」
「私たちとは、『在る』そのものである」


もし、潜んでいた存在が居たとして、その者たちの異質さに可能性を見るにせよ
そこに湧く現実性は、付き合い方の変化の訪れでしかない
付き合い方の優劣を選びたいのなら、そこには奪い合いしか訪れないであろう
あるがままだと思えたなら、平安が脇を歩いていたにすぎない‥

それでも人はあれこれと押しつけがましいものである
なぜなら、大抵多くの者がデコボコだからにすぎない
まん丸くなりたいのが、そもそもの人の性なのだ
ならば、デコボコしているのが当然だ

始めからすべてがまん丸であったなら、形に維持性を得るよすが(可能性)など有り得ぬ
デコボコだからこそ、得られている日常を心得るべし


‥味わいに、侘び寂びを抱けぬ文明に未来などなし
posted by 木田舎滝ゆる里 at 21:51 | Comment(0) | | 更新情報をチェックする