1-4)改稿.2015/05/18...2015/05/17...
俺はアンチ資本主義の姿勢から零戻経済を模索しているが
それでも商売をしたいとは思っていない。
‥これはとんでも発言だが
商売をしたいと思わないのと、個人的な活動をしたいと思わないのとではだいぶ違う。
なぜそうなのかと言えば、多くの商売のそもそもが
人が抱くほどほど程度でしかない欲求を当てにしているだけだからだ。
‥表現者として、そういうのは好かん。
しかし、生活する上において、そういうのはある意味で普通である。
> 仮に、「本当に完成されたもの以外、売るべからず」のお札が立ったとしよう。
これだと‥量産化を前提にした物の多くは推奨されることがない。
でも多くの人の思考はそうではなく、適度な許容を持っている。
それがなぜかと言えば、自分の器を理解しているからとも言えるからだ。
しかし、自分の器を越えたものにも、興味関心を抱くのが人というものである。
‥とその前に
完成しているとした概念自体が意味不明だ。
そもそもにしてそのお札を立てた精神そのものは完成していると言えるだろうか?
如何なる水準の科学なり生活観を前提にしての言い分なのだろうか?
世の中のすべてに完成の度合いを識る感性と知性の共有を得ていないのなら、なんの意味もない。
言い換えるなら、厳正な審査の上、免状を得たもの以外の商売を禁ずるとの意味になる。
‥それはそれで、もの凄い格差の容認だ。チャンスに乏しいルールである。
免状に辿り着くまでの生活等における保障はあるのか?
そもそも、その間の必要を商売の前提に入れないのなら、物を造るなと言っているようなものだ。
‥人として
そこまでの押しつけはされたくはないが、くだらない物を掴まされたいとも思わない。
人のその辺のアバウトさは、手の付けられないほどにいい加減だ。
そうだ、確かに人は、商売に対していい加減な枠組みを了承し合っている。
「‥それはもうどうしようもない程に」
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