1-4)改稿.2015/06/12...20150608...
> まず、鏡似性とは何か
・イメージは鏡の世界のフラクタルと言える。
・常に物事は同時発生的に存在する‥ということである。
・そしてそこには、意識と実の対峙が関わるということである。
‥自分の意識の中に潜む
自分のようで自分じゃない‥でも自分として認識される
そう言える自分が数々に居り、それが個体と言うことではなく群体で以て交互に意識を醸し出す。
そんな要素が、お互いに面と向かい合って、実において対を成し得ているということである。
それを可能性として扱うか、機能として捉えるかの解釈は勝手だが
相対的にも、主体的にも、心には気持ちと映像が同時に去来するという
そのように‥心と実が対の状態に置かれ続けるのが、私たちの実相だ。
つまり
お気に入りの実を迎えたければ、認識を変えるしかないと言うことでもある。
なぜなら、同時発生するのが鏡似性の世界だからだ。
> もう一度言おう
心と実は普通に考えても繋がっているように見えている。(其もまた鏡似性だ)
しかし、そこでは自分という存在をまだまだ一つの単体としてしか見ていない。
他人という見方にしてもそうだ。頭で理解しようとして限定的にしか見ていない。
‥それが私たちの日常だが、それではそのまんまの鏡似性しか訪れないままだ。
それはつまり、わからない私とわからない貴方とした鏡似性だ。(‥分かり合えない現実とも言う)
意識の感覚、物の見方、集中の仕方、理解の仕方‥
それぞれの瞬間瞬間において、それに通じる事象を引き寄せ合って、お互いの鏡が形成される。
同じ物事を得ていても、見方が異なれば、それは同じ事象であっても鏡としてまったく異なるのだ。
同じ理解をしていても、瞬間の判断に差があるなら、引き寄せた鏡が異なっていたと言える。
引き寄せた事象や状況が鏡としての接点を有しただけで、それの対になっていた意識が異なるのだ。
‥心の中で何を見ていたかでもある。何に焦点を合わせていたかでもある。
一見、当たり前のような話だが
鏡似性を理解することは、是非の問題ではない。
まずは、水の中を水の道理に従って泳ぐべき状況にあるというだけの話だ。
‥まず
水の流れに適応できるだけの自分が求められる。
その水の中で自由になろうとする自分が求められる。
アレが駄目とかコレが駄目とかグダグダやっていると、不自由な因果を引き寄せることになる。
泳げないなんてのは最悪だ。始めからそれでは辛いばかりだろう。
ならば、まずは水の中の世界を受け入れる姿勢が肝心だ。
そこに生まれてきたのだから、其を受け入れるべきが始まりにおいての自然体になるのだ。
それの事象自体に罪も罰も無い。価値に差など無い。
しかし、物事は均一には成っていない。それは心が異なっているからだ。
意識の中に内包されているよすがが異なれば、その瞬間から、引き寄せている鏡は異なる。
また、何らかの事象に引き寄せられている場合もあるだろう。
それは、意識に強弱の差がある次第を意味する。また、力の釣り合いを意味する。
引き寄せる側と引き寄せられている側の総量や力の釣り合いは互いに等しい。
釣り合いを欠いたり、認識がかけ離れていたりしても‥事象はそれに従う流れになる。
(物理的に避けられない状況にしても、最後までわからないと言うことだ)
そうでもなければ、鏡似性はバランスを欠くことに成り得、鏡似性とは呼べなくなる。
(‥其は、同時に発生するがゆえの鏡似性の特徴だ)
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