記稿.2015/10/04
人は誰しも図々しさを兼ね備えている。
私を示さずに人は生きられない。
私を示さずに居ても同じことだ。其もまた図々しさの一つの形にある。
‥図々しさをどこでどう使うかが世の醍醐味でもある‥
不思議なことに想定内の図々しさはそれほどに気にならない。
‥少しでも枠を超え出すと鼻に付く‥
お互いの図々しさが近いと言うだけで気が合うのだ。
人をそのように見ると、好き嫌いの多くに意味が無いことがわかるだろう。
‥鼻に付く奴とは、そこにある図々しさの形が違うのだ‥
とにかく五十歩百歩だ。老若男女、聖人君子にもそれはある。
そこにある違いを知りたいと思うのが人でもある。
‥命に優しくあれという前に、まずは自分のそいつをなだめすかさなければならない‥
でも多くの場合、自分に甘いところから始まっていく。
‥それこそが、人は優しくあるべきだとする図々しさだ‥
自分にできていないことを人に求めるところから始まるのだ。
それが当たり前だとした見方から始まっていく。
挙げ句の果てには、都合が悪ければ嫌いになる一方だ。
条件を満たせば、その間は、お気に入りに位置することになる。
図々しさが違えば、求める優しさの形も違っている。
それでは、互いに理解などできないだろう。無理からぬ事だ。
‥まずは自身の図々しさを認識し、自覚できるようにあられねばならない‥
それがゆえに
図々しさの違いから乱れた争いは起こり得る。
おしかりや大目玉を経験することになるのは当然だ。
理解し合うまでその争いは続くだろう。ネチネチした躾感情は続くだろう。
‥なぜならそれは、お互いに手を取ることが答えではない‥
自らの図々しさの形を理解することで、はじめて互いの図々しさの違いが見えてくる。
その結果、何をどう改めるべきかが見えてくる。
それでもいきなり理想を掲げることはできない。そんなのもまた図々しさの形の一つだ。
‥一つ一つずつでしか見えてこない‥
その一つに一つに気がつく度に、そこに在った命に謝罪すべきことになるだろう。
それほどの命があってこそ、無礼を為して尚ようやくにして学ぶことができたのだから。
‥そこに、どうしようもない私が居られたのだから‥
‥自らの無礼をすべてに許してもらう前に、自らが、自分へのすべての無礼を許すことになる‥
勿論、そうは思わない図々しさも当然あるだろう。
しかしそれはそれだ。そこに対峙する段階にまだまだ在るということだ。
‥そこに居るのは、いつだって私ではなく私たちなのだから‥
‥見過ごすことなどできない‥
‥放っておくままなど有り得ない‥
‥愛とて、図々しさの薄れていく過程の仮の姿である‥
図々しさの薄れゆく段階において
ちょっぴり成長した自分たちのそれに、名前を付して酔いしれてみたい私たちが居るだけだ。
祝いたいだけの私たちがそこに居る。
‥それも供物を以て祝わんとばかりに‥
“こども”を“子供”と書くのが我慢ならないなどと抜かしやがる以前にあるそこの矛盾を、
「汝らの図々しさを、どう見ているというのだろうか?」
誕生を祝うのに供物を求めるから子供と書かざるを得ない。それの何が気にくわんと言うのか!
かようなことを言い続けるというのなら、自らの誕生を祝うことからして退けるべきである。
汝らの優しいなど、ほとほと自分に甘いだけの形にしかあれていない。
自覚が無いから、そのようなちぐはぐを論ずることになる。まったく以て図々しい。