2015年10月06日

【参考】死んだ方がマシに潜む逆説

記稿.2015/10/06

 あまりにも辛い人生を耐え抜いても
 それが尋常ならざる辛さにあったなら

 ふと‥「死んだ方がマシだった」と思うかも知れない。

 そんな人生ばかりを歩み繰り返していると、きっと壊れるのだろう‥
 だから好奇心にも死んでみたりするのだろう‥
 そして、それはどうしてか癖になるようだ‥

 「死にたくなる」経験があるなら、きっとそういうことだ。

 ラクになりたい理由がどこにあるかは人それぞれだ。
 でも、耐え抜いた自分に誇りを持てないのなら、何をやっても無駄である。


> だってそれは、人をほめる上でのツボを、真っ向否定した態度でしかない。


 とにかく、否定することをラクだと考えている。
 まぁそんな根性も過ぎれば、手っ取り早く「死んだ方がマシ」を弾き出すのだろう。
 ‥人にそれをススめる罵りも同じことだ‥

 何が癖になるのかと言えば、そんなところだろう。

 耐え抜いた自分を讃えられない根性はとにかくどうしようもない。
 価値基準が、根っこからして盲目だ。
 それでは、人の良いところも分からず終いだろう。

 でも、耐え抜いた人を前にすれば圧倒されるのだ。
 ならば、そこにはウソがある。尤も‥
 ウソを付いている自分を正直に感じ続けていると、どうしたって立ち直らざるを得ない。

 ‥ならば、ウソすら感じられない事情があると言う事だ。


> 「死にたくなる」というのはまぁそういうものである。
> ‥「死ね」と罵るのも同じことである‥


 壊れている自分を自覚するのは、まぁ大変だ。
 とても時間が掛かる。すんなりとはいかない。まずは諦めろ。

 ‥だが、諦めるところから自覚を始めると、不思議と腑に落ちやすくなる。

 それは一見、平凡にあろうとする姿勢とほぼ同じ感覚だ。
 でも少し違う。意地になってでも諦めるほどの自覚が求められている。
 諦めたとする自分に意地になることだ。

 ‥意地は粘りを呼び、生への執着を引き寄せる‥(ここが肝心)

 くだらないと思うかも知れないが、壊れているんだからそうでしかあれないのだ。
 まぁ知っておくのも良いだろう。徹底的に自覚して諦め通すのだ。

 是は、何もしないと言う事ではない。
 それでは本当にどうしようもなくなる。まぁ無理する必要もないけどね。
 (少なくとも、多くを期待できる状態には無いのだよ)
posted by 木田舎滝ゆる里 at 23:17 | Comment(0) | 考察 | 更新情報をチェックする

【詩】人生は行き詰まりの旅路

記稿.2015/10/06

人生には行き詰まりがある
人生には行き詰まりが待ち構えている

普通の多くはそこで挫けてねじ曲がる

それが普通だったなら‥
誰しもはやけっぱちを肯定してハイ終わりになる

でもそうじゃない

どんな逆境にも耐え抜いてケロッとしている人がある
奇跡の人だ、否、迷惑な存在だ
そんな人が一人又一人と、存在を露わにし始めると
挫けている者は、あっという間に肩身が狭くなる

普通なんて無いのだ

普通なんて無いからこそ行き詰まりはやって来る
普通なんて無いから逆境を乗り越える人もいる


「普通なんてものはそもそもにして目標ではないッ」
「じゃあなんで普通にこだわるのだ?」


それこそがそもそもにして行き詰まりなんだ
普通に無いからこそ、常在戦場、油断大敵、臨機応変なんだ

それはつまり、日常は常に行き詰まりで溢れかえっている

たかが人生の数十年間‥その間‥
自分に都合好くしか考えない根性の方が随分と行き詰まっている
そこを助長する仕組みに、皆で、真剣になってしがみつこうってんだから尚更だ

‥逆境に耐え抜く人が居ることの方が、よっぽど普通なことだよ‥
人はそのようにできている。何も恐れることなんかない。ただ辛いだけのことである

人生は逆説の逆説でできている。一巡すれば丸くなる。途中で止まれば尖るだけのことである

「尖っていたいなら挫けていればいいさ、丸くなりたいなら耐え抜いてみればいいさ」
posted by 木田舎滝ゆる里 at 21:50 | Comment(0) | | 更新情報をチェックする

【考察】新興宗教のカタチ

1-3)記稿.2015/10/06

> 法律で定めるところ、宗教の前提には礼拝施設が求められている。


 しかし、「礼拝施設とは何か?」に触れた文言は一切述べられていない。
 礼拝施設の解釈は雰囲気になっている。デザインの余地が残されているとも言えるだろう。
 ‥解釈の仕方によっては、教祖を拝む場所との見方も生じている。

 新興宗教の多くは、

 既存している何らかの教えからの派生である場合がほとんどだろう。
 だから、礼拝堂の雰囲気もそこから極端に離れることがない。


> ところが、まったくの自身が教祖を拝む対象とする場合


 英雄気取りにも、教祖自身自らの写真を飾らざるを得ない次第となる。
 無論、そんなことをせずとも、礼拝堂としての機能性を持たせることは可能だ。
 ‥むしろ、雰囲気を求めているのは、どちらかと言えば信者の方でもある。

 (教祖が商売としての宗教を狙っていたなら、そこはもろになりそうだ)
 (政治に例えるなら独裁政権さながらの雰囲気を醸し出す)

 ‥まぁその辺、オレオレに陥らないように三人以上の役員が求められている‥
 ‥それはまた始めちゃった以上、役員が全員辞めると言い出さない限り終われない仕組みでもある‥
 ‥なまじ信者数が多いと、俺が役員になるとか言い出しそうでもあるな‥


 あとはまぁ、信者が付いてくるかどうかだが‥
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posted by 木田舎滝ゆる里 at 14:41 | Comment(0) | 考察 | 更新情報をチェックする