2015年11月11日

【脱洗脳】共生とは炭水化物の如し

記稿.2015/11/11

> 共生とは何か?


 例えるなら炭水化物である。

 タンパク質を十分に取れば、炭水化物は少なめでも好い‥
 ‥などとの思い込みはまさに、おいしいご馳走に首ったけの価値観だ。

 体質改善上の課題も中には含むにせよ、それにしたって

 タンパク質は自由に奪い取ってくれば良いみたいな価値観を土台にしている。
 適切に狩ることでバランスは保たれるだろうにしても、よそ者にそんな細かい事情は知る由もない。
 おいしく味わえればそれで好いだけのお客さんの有り様にある。
 ‥それはそれで強者の価値観と変わらない横暴に近しいところがある。


 ところが炭水化物だけはそうは行かない‥

 誰かが必要分を作らずには始まらないのだ。
 無論それは、誰か任せなどではなかった。
 一致団結の大仕事だった。

 それが今や、技術の躍進により又土地活用の多様化により

 炭水化物への注目度はあるような無いような‥
 無いなどとは有り得ないのに、めっきりとタンパク質より影が薄い。
 ‥まるで、肩身の狭いお父さんの如し扱われようになっている。

 共生が保てないことで、男の立場も薄くなった。
 そこを保ってきた農耕は、まさに炭水化物の如し象徴だった。


> 現代人から共生観が薄くなったのは、自由を誤解したからだ。


 モラルを欠いた自由について議論することもなく、
 欧米列強のやり方を受け入れたことで、すべての歯車がおかしくなった。
 まぁそういうと世界は始めから歯車のずれた連中なのかというツッコミもされるだろう。
 ‥私たちのご先祖様にしたってピンキリの所が見られる。

 それにしてもである‥

 植民地支配を平然と行い、奴隷を了承し合ってきた連中と同じなわけがない。
 その者らの突きつけた銃口に正義なんぞ1ミリも無かったのだ。
 其は言うまでも無く、欧米人の「パンより肉だ」との価値観こそがそれを物語る。

 見よ。肉を主張していたわりには、旨味を知らずにいた連中だ。

 私たちは、炭水化物に重きを置いていたからこそ、旨味を覚えるに至った。
 ‥それはまさに共生の価値観のなんたるかの鏡似性でもあったのだ。


> 蹂躙しても好いなどとした自由など無い。それが普通である。


 どこまでが許されることなのか、無駄に慎重になるのは当然なことだ。
 中央が決めてくれないと何も始まらないという単位で無かったからこそ、それは成り得ていた。

 その意味では、大きな共生観など未だかつて人類にはその経験が無い。
 ‥そこはお互いに肝に銘じるべきである。


 国家の単位ですら、できもしないことを棚に上げて‥
 グローバルでないと意味が無いなどと言うは、実にたわけた見解だ。
 そこの言い分はいつだって、植民地支配時代の空気と変わらない。


> 小の段階でうまく行えないのに、どうしてその先の器があるだろうか?


 いつの時代でも‥何も言わずに居ては、蹂躙されるのは至極平然な状況に置かれ続ける。

 せっかくの民主社会を掲げていても、
 そこが人任せのままに諦めていたり、意見もせずに汗を流す様は、もはや共生とは言えない。
 それはそれで、植民地支配の体制を受け入れた隷属の如しである。
 ‥せめてものの慰みとして、人の良い主を求めても始まらないのだ。


 自由の意味を勘違いしていると、いつの間にか隷属の空気を醸し出していることになる。
 ‥そんな自分の気持ちに去来する危うさに、常に疑問を抱くべきである。


 ならば、隷属では無いとの意志を示す為にも、挫ける自由も又お預けになるだろう。
 それのお預けが嫌なら、自分にできる形の共生ぐらい信念を持って向き合うべきである。

 簡単に言えば、自分の気持ちに嘘や偽りを被せるな‥と言うことである。

 何事もダメで終わらずに、何とかしようとすべきである。インチキな奴らほど吾が身にそうだ。
 ‥自分がまともな側だと思うなら、尚更に智慧が湧いてこなくてどうする。


 「まずは、向き合うべき気力を養う上でも、炭水化物を食うべし」
 「おかずは早い者勝ちでも、ご飯はわけて残しておいてやるのが共生の心配りというものだ」
posted by 木田舎滝ゆる里 at 22:28 | Comment(0) | 刮目/2015 | 更新情報をチェックする

【脱洗脳】しあわせなんて幻想だ

記稿.2015/11/11

人生は「うるさい」と「つまらない」でできている
しあわせなんてものは幻想だ


小言を気軽に吐く奴に限って、手より悪対・罵りが口を衝く
ほめてもらいたい奴に限って、「ありがとう」はポチ待ち状態だ
自慢したい奴になると、しあわせは僕だけの物なんてオーラを放っている

つまらない仕事を避けようと一生懸命にサービス業を選ぶ

心から気配りする気も無い癖に、一番にサービス業を選ぶという矛盾‥
人と対面せず且つリスクを負わずに済む仕事なんか何一つとして無いのだ
運動選手にアイドルともなれば尚更だ


頑張ることは、一見つまらないように見える
地道に孤独の道を邁進する後ろ姿は確かに地味だ
ハッキリ言ってもそれだけだ
やりたくないことなら尚更だ

見返りを求めて事に当たると、途端に裏切られる
心静かに、物事に対峙できない者は手作業には向かない

そんな手作業に向く者に限って、出しゃばることを知らないかのようだ

競争社会においてそれは追い詰められるばかりだろう
なぜって、身につけてなんぼと思わない輩ほど量産化の仕組みに関心が高い


「したいことができることをしあわせ」なんて定義をしてみたところで

ただの思いつきの自己満にしかあれていないのがほとんどだ
それらに何の意味がある

意味を求めない思い込みのままのお花畑は、所詮ガラクタだ
その証拠であるかのように大量消費社会を私たちは見てきた
買った物はさっさと壊れるか古くなり、無駄に欲しいを倍増しただけのゴミの山だった
まったく以て価値が無かった。それどころか、地球を壊してきた恥知らずだった

ババを掴まされてきたにもかかわらず、それでもそれがしあわせの形のままに置かれている

まるで、他の表現を知らないかのように‥
ああそうだな、うまく表現できない奴ほど無駄が多い


今一つ、はっきりと申し上げておこう

「人生は、血と汗と感謝でできている」
「何事にも犠牲は付き物だ。それが私では無いとした汗もリスクも存在しない」
「犠牲を減らす上で必要なのが共生だ。それは効率でも儲ける算段でもない」
「それをしあわせというのなら‥喜んで言葉に表現するとしよう」

「死と向き合わずして語られる幸福の追求なんざゴミ同然である」
「‥其を権利などというブッフェ風にしたためて、軽んじる社会自体が糞だ!」
posted by 木田舎滝ゆる里 at 06:18 | Comment(0) | 刮目/2015 | 更新情報をチェックする