記稿.2015/12/30
通常、人は、掴んだことをなかなかに手放せない。
‥されど、仏陀は手放すことに於いて仏だった。
手放せないことは何も悪いことではない。
そのこと自体を、欲や煩悩と蔑み、思い煩う必要など無いのだ。
‥良きにしろ悪きにしろ、掴んでしまうこと自体に罪など無い。
ただし
毒を含んでいるのであれば、毒を抜く必要がある。
もしくは毒の使い方を心得る必要がある。洗い流し方でもある。
‥そうでもなければ、人の世に於いて、その毒が猛威に見えるばかりだろう。
> 仏陀は、ただ毒気の抜き方を教え、毒の何たるかを説いた。
> 本質に於いて毒など無い。それはただ、相手のことを慮っていないだけのこと‥
簡単なことだ。きちんとした生活を心掛けて実践すれば良い。
しかし、人の多くは真っ直ぐではない。その多くがひん曲がっている。
‥磨かれていない原石が光を放たないのと同じだ。
> 仏陀はただ原石の磨き方を語った。
もう一度言おう。きちんとした生活を送ることだと。
‥あとはもう慣れである。
そんな仏陀は隠者のような暮らしぶりである。
‥何を以てきちんとした生活なのか、全く見えてこない。
「自分の念い必要とするところを為せ。」
そう言われると、多くの者達は、これ幸いとばかりにぐうたらになる。
そして、自分の都合ばかりを強いる些末をもたらす。
‥そんなのは、誰が見てもきちんとした生活とは言うまい。
> その点に於いて、仏陀は、毅然として小乗即ち心磨きの姿勢を保った。
でも、その弟子は大乗などと言い放ち、「苦しみは御仏が引き受けて下さいます。」
‥などと言い放った。
‥一番に簡単な心磨きがお祈りと言うことになるだろうか。
心身共に心磨きのできる者が先に増えないことには、仏国土など有り得ない。
でも、着いてこられない者達の方が圧倒的に多いのだ。
‥所詮、結局は、自分から丸くなって輝くことが求められている。
‥されど、人の世は戦場の如しに据え置かれ、丸くなるどころか角立つことの方が多い。
なぜそうなのか‥それは宇宙そのものが壮大な実験場だからだ。
欲情といっても好い。もとい浴場だ。
‥洗って綺麗になると、それに適った世界を手に入れる。
‥まだまだ穢れていたり、毒気を放っていようなら浸かったままだ。灰汁を抜かねばなるまい。
‥自らの想念が自らを作り上げる。他人事ではない。他人任せでもない。
> 磨くのに使われるのもお互いであり、自分よりも硬い頑固な人柄は、特に効果が得られよう。
‥それはもう、デコボコのままなら、削りカスが飛び散る毎日になるだろう。
‥自分がどれだけ磨かれたかなんて分からない程にくたくたにもなろう。
そりゃそうだ。相手の心を映す鏡の如しにならなきゃ合格には成らないのだから。
‥ポイントを押さえていれば楽しいことなのに、自分しか見えていないとつまらない。
‥自分すら見えないなら、そりゃ苦しいばかりだろう。
自分の気持ちも相手の気持ちも分かるようになる‥ただそれだけのこと。
‥その一番に繊細な研磨が、どうやら‥お祈りと言うことのようである。
「誰しもが穏やかに在ることを願う。」そんなお祈り‥(へぇ〜そうなんだ。)
> お祈りのプロとは、不器用のプロでもある。
器用とは、非情なほどに引っかかり少なく、恐ろしい程にこだわらず上手の仏を指す。
簡単に言えば、据え置きのプロ。頃合いのプロ。自覚の達人。
‥人並みになんて思っている時点で不器用なのだよ。そこんところお間違いなく。
「皆が同じように平穏に」なんて願望は、相当なこだわり、頑固、不器用ということだ。
‥それは仏陀から見て、呆れるばかりに映りはするものの未熟という意味では無い。
仏陀は、相手の心情を心得るも、どうにもならないことを自覚する。
‥なぜなら、それが今のあなたの心だから。
‥心とは、一朝一夕にどうにかなるものではないのだと。まずは、それで好いのだと。