記稿.2016/01/30
誰しもは、自分の手に負えないことに出くわした時、
良心があればこそ祈るのだ。その対象が、自分事ではなく相手事にあれば尚のこと。
その相手事の急務が命に関わることなら尚更になる。
‥最終的に、祈りの根っこに、そこに於いて辿り着く。
> で、誰が請け負うのかである。
祈りなんてのは、ただの人任せの如しだ。
しかし、それも積もればなんとやらで、祈りの根っこにまで届く祈りが多いに越したことはない。
根っこに届かない祈りが多いのと、根っこに届く祈りが多いのとでは
その暮らしに見られる民度は、明らかに違ってくるものだ。
民度が高ければ、自ずから請け負う数はそれなりに維持される。
‥あとは、芽が出始めたそれらを皆で育てるか否かになる。
ただし、同じ祈りが続けばのこと。
一つの技術の台頭が世間の価値観を変えてしまえば、祈りの方向性も変わってくる。
ぶれているのとは違うにせよ、求められる性格が変われば、必要とされる形も変わらざるを得ない。
‥民度がどうであろうと、そこは変わらない。
> では、根っこに届くべき祈りは、なにゆえに維持されるだろうか?
所詮、人としてあるべき普段からの心掛けに、進化無用と言うことだ。
それは、人としてあるべき核みたいなものだ。
‥でもなぜか、その核を軽視する輩もおる。
つまり、人である前に宇宙の一部だということだ。
其の本質に目を向けずして、汝の祈りが届くわけもなし。
其の本質に目を向けずして、汝の視野の広がるわけもなし。
|天地より授かる命に祈りとは「平和と世間」いつもの宿題
祈りの本懐
「お願いします。なんとかしてやって下さい。」
「いやぁそう言われましてもね、自分の宿題は自分ですべきでしょう。」
「じゃ、せめて効率が上がる秘訣を是非‥」
「常に積み重ねることですな。それがお祈りであろうとも。足が出ようとも。」
「・・・ほんなら、あんたの積み重ねってなんどす?」
「そりゃ、あんたが来るほどだ。相談だよ。
「だから世間の宿題が減らないことがよくわかる。
「結論として、自分でしなさいとしか言えません。それは、私からの効率でもありますけどね。」
「うちは、そんな話を聞きに来たのではありません。」
「そうですか、ならば無駄に徒労されるがよろしいでしょう。
「それが多分‥あなた様の積み重ねるべきことのようですからね。」チーン