1-2)記稿.2016/02/07
> 零戻経済に於いて、ネット枠電子マネーの支払いはどうあるべきか?
資本経済に飼い慣らされた頭のままでは、
どうしたってデジタルアイテムの消費は、ネットマネーを介して支払うのが当然だと思い込んでいる。
(ネットマネーを買って、それで十分だと‥)
「それは本当に正しいやり方だろうか?」
‥其に疑問を持たないままなら、ネットマネーの既存的ルールから一歩も進む所がない。
電子マネーのそもそもは
改札の混雑を緩和する上での流れから来た副産物だった。
そこにネット管理という共通項に着目した結果、ネットマネーとしての今の形がある。
‥それはそれで、資本経済構造上の都合でもあった。
零戻経済には、そこに根付いていた資本利権の都合など不要だ。もっと自由に考えて好い。
> 例えば、子供の小遣い
ネット払いであるがゆえに、ネットマネーからしか支払いができない形は
親としては、与えるお小遣いに対して、そのお金の使い方が気になって仕方がないままだ。
(できるなら、お金の話抜きに、購入した中身に議論の論点を置いて言い聞かせたいところだ)
そもそも‥その手の消費には
ゲームごとにアイテムが違っていて、楽しむ上である程度の数が求められる。また、
その数とゲーム自体の数量が倍増し続けるという難儀が、無尽蔵の資金を遊びに要求する。
デザイン的に見れば、デザイナーを育成するにはそれだけの場数が求められるという話だ。
そこをダメダメ視線で見ていては、世の中のデザイン性はちっとも向上を見せることにならない。
世の中において一番の金食い虫はデザインであり、それは何も子供の遊びに限ったことではない。
‥親がそこをダメと言い張っては、ママが自分のおしゃれを我慢すべきだと主張したも同義である。
> だが
そんなものに汗して稼いだお金を注ぎ込むほどの価値はあるだろうか?
‥それこそただの買い道楽にしかあれていない‥
だからこそ
穂カードを利用した買い物ができないともなれば、踏んだり蹴ったりで
凝ったデザインに触れる機会や体験を逸することになる。
それは、人生の細かいところでの至福感の連鎖を減少させるばかりだろう。
何事に於いても‥デザインから刺激を受けることを批判しては、損を見るのは私たちだ。
まずは、多くのデザインに触れずして、善し悪しを見る目の養われるところがない。
ならば
穂カードの金額からでも、ネットを介した買い物を立ちゆかせる角度が求められる。
‥それも、ネットの外が、シャッター通りにならないようにである。
(近隣に店が一軒も無いのに、家々のクローゼットの中身はぎっしりとしているなんて様は)
(それこそただの消費の肥やしだ。近隣に職場が無い(作り手の不在)を示すばかりの矛盾だ)
(‥そんなのは村造りでも人生の豊かさでもなく単に妄想同然だ。当人らが作り手なら話は別だが)
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