2016年02月27日

【経過】Windows関連の通信許可を全部塞いでみたところ

記稿.2016/02/27

> CPU使用率が、大幅に上昇するばかりになった。(著生の愛機で概ね80%)
> Cドライブへのアクセスが頻繁になった。書いているのやら‥読んでいるのやら‥


 いつまで経ってもそれに終わりが見えない様子に根負けし
 Windowsサービスのホストプロセスだけ通信許可を解放した。
 (ホストプロセス周りにRundll32というのが2つもあるのだが、そいつは不許可にしてある)

 アクセスにはきっと表通りと裏通りがあるはずだと思ったものの
 ‥それから後で、外部からの攻撃を受けた。


 俺はウイルスセキュリティZEROを使っているが
 とあるアンチウイルスで検索した結果、libglesv2.dllがウイルスだとの指摘があった。
 (アプリのシンボルマークは覚えているのだが、その出来すぎに怪しさを覚え即行削除し記録せず。)
 (今から考えると控えておけばよかった‥確かブルーカラーの楯‥ってどこにでもあるし)


 で、そのibglesv2.dllを削っていると何がどうなるかというと
 ホーム画面を開く度にエラー窓が音を鳴らして立ち上がる。
 ‥俺が立ち上げていないのに、勝手にそれが発生するなんてのは、間違いなく攻撃されたのだ。

 つまり、libglesv2.dllの存在それよりも
 ウイルスセキュリティZEROは、もはやファイアーオールとして失格ということになる。


> 攻撃を受けるとウイルスセキュリティZEROのホーム画面上では赤くなりますが
> タスクバー上のカラーに色の変化は起こりません。これじゃ、赤チンにもなりませんね。残念。


 でもまぁ、信号が手動に回せるというのは、それはそれでこちらから
 通信遮断すればいいということです。どうせ試し打ちの攻撃でしょう。
 そしてそのカラクリは、あちらがどうこうできるという中身にありません。
 だって、ウインドウズがエラーを吐いちゃうんですからね。

 仮に本格的な攻撃を受けたとしても、ケーブルを抜けばとりあえずは凌げます。
 (そのぐらい、躊躇せずにやりますよ)

 でも、今のところそこまでの感じはありません。理由からしても見当たりません。
 ‥あったとしたら、そりゃケーブル会社の検討から考えるしかない。
 ‥それと、ブログからログを拾われるほどの標的という妄想がビンゴなら
 ‥ブログサイトも変更するしかないでしょ。まぁアドレスの変更をすればいいだけだけど。
 (そのぐらい、躊躇せずにやりますよ。検索のヒット率なんかどうでもいいですから)
 (それならそれで、却ってブログを一つにまとめるのに好都合と諦めがつきます)

 ‥それでも攻撃される感覚に特定のリズムを感じるなら
 それこそ、当方の記事伝いにやってくる読者またはSeesaaのどちらかに悪意を持った存在が
 という事を想定せざるを得ないということになりますが‥単に木馬への定期巡回チェックかと。


こないだの再起動時に何かをインストールされたという件ですが

 どうもAtok周りの乗っ取り工作だったようです。
 数として、それと同じ量のおかしなファイルがありました。
 ウインドウズがフォルダー認識しているのに、見た目がファイルの下ってどういうことだ!!!
 (それと‥Software ProtectionとApplication Identityが停止していた。)


> 思えば


 デフラグツールには、再起動時の作業の登録をOS側に連絡できる‥という手法がある。
 圧縮フォルダーの実際はZipファイルである。

 ‥それぞれの良いとこを組み合わせれば、削除されても再起動絡みで生き残れるし
 ファイルの下にファイルがあるというツリー構造になるから、
 検索に引っかからないと見つけることができない。

 ファイル名が同一だと検索に引っかかるけど、まったく違っているとほぼ認識不能に置かれる。
 ‥本体がそこに位置しては、見た目ではまったく認知不能。(まさに土遁の術)

 仮に、exeファイルの下に、ツリーにして隠せるとしたらまったく確認できない。
 (どのアンチウイルスだって、そんなんではお手上げせざるを得ないだろう。)
 (概ね、圧縮ファイルにしか見えていないはずだから)
posted by 木田舎滝ゆる里 at 14:11 | Comment(0) | パソコン悩ましいZ | 更新情報をチェックする

【参考】分配の公平の先に得られるべき形

記稿.2016/02/27

 ‥個人主義、能力主義、成果主義
 格差は生まれても当然とばかり考えていると、

 負けが込んでいる側は、仮に感謝したくても、先立つものが無いか思うにならない事態に陥る。
 ‥それはもう慢性的にである。ここは奮発するべき所と慮ることを知らずに生きるのだ。

 もしくは、あの人は困らないほどに自分より持っているだろうから
 ささやかなプレゼントになんか見向きもしないだろう‥という空気で窒息しそうなままだ。

 また

 お互いに素寒貧なら尚更にあげても仕方がないという範囲でしか示せない。
 ちょっとした気遣いとか、気前が良いというだけでは、感謝として伝わるかどうかなど定かにない。
 たぶんそれだけでは、感謝を示したくてもこれと言った特別感で伝わることはなかなかに厳しい。
 ‥そのような場合に無理に頑張っても、相手はありがとうよりも先に切なさがこみ上げてくるものだ。

 それはもう深刻なもので

 勝ち誇っている側が、余裕をこいて、お決まりセットをあなたの為にと用意するだけでも
 ‥逆に憾みにしか思えずに、その場から立ち去るしかない程である。
 ‥そこに起きている気持ちとは、居場所のアンマッチなのだから。


> 一方で、公平に分配していると


 お互いそれなりに手にできる範囲は限られているので
 ささやかな贈り物であったとしても臆することが減る。同時に
 感謝されていると自負するなら、結果的にそれを表現して頂けるという形が得られる。
 ‥そういう空気が世間に広がることになる。

 ところが

 お歳暮のような形めいた縛りがそこに蔓延し出すと
 感謝の気持ちよりも、見栄や義務に偏りがちになる。
 ‥公平だからうまく行くというわけでは無いにしろ、うまく行きすぎていればそうなるはずだ。
 (戦後昭和の繁栄が良い例だと思う)


> 好かれているのか、そうでないのか‥
> 感謝の気持ちの表しかたをどう示すのか‥


 そこを基準にしていいのが自由であるのなら
 感謝されるかどうかの声の多い少ないにこそ意識を向ければ良いことになる。

 ‥人類はそこを愚かにも、労働とか権利とか稼ぎとか
 そのままの取り分で表現すればいいなどと思い込んで来てしまったのである。
 それもこれも、貴族への憧れとばかりにね。


 声でさえどうでも良いというのなら、集団から距離を置いて生きるだろうし
 ‥感謝の声の少なさに我慢がならないというのなら、ますます闘志を燃やす事に成るだろう。

 「どうすれば感謝の気持ちを自分に向けて貰えるのか?」

 見せつけては、却って嫌みにしか映らないのは誰しもが思うところであり
 だからこそ、感謝の気持ちを気兼ねなく表して頂く為にも、配分の公平は前提大事なことになる。
 ‥自分なりの感謝を示しにくい空気ほど、人を窒息させてしまう不自由と悔しさもないのだ。


> そこが未だに分からないというのは、人として不十分としか言いようがない。


 どんなに誰かがアートだ芸術だと囃していようと
 そこに感謝の見え隠れしていない行為や作品は、単に汚臭としか言いようがない。
 ‥尤も、何に有り難みを感じるのかは人それぞれだし、ケチを付けるのも個性の内である。

 少なくとも誤解されていると思うのなら、その原因はあなたの側にある。
 ‥自己責任と申し上げても宜しい要素があるとするならば、たぶんそれだけだ。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 00:42 | Comment(0) | 考察 | 更新情報をチェックする