2016年03月11日

【検討季語】窓辺咲き

改稿.2016/04/20...20160311...

> 窓辺咲き【まどべざき】‥教室から見える&校庭に咲いている花木の光景。
> 主に春の入学時を指すが、振り返る時にもその心象を指して用いる。


 和歌の世界で花と言えば、桜の花を指すのが決まり事であるように、
 窓辺咲きと言ったら、学校・校庭・校舎・桜・入学・教室
 をひっくるめたニュアンスに限定しても何ら問題ない。むしろそうでない状況の方がおかしい。

 ‥というのを思いついたわけだが、少々の問題点を含んでおり、扱いには多少の注意が必要だ。
 (卒業については、門出咲きで表す案が思い浮かんだのでそれに譲る)


 例えば(参考)

|窓辺咲き隣の席○片想い‥このまま退くのか?攻めるのか?

 ‥の場合、卒業の時期なのか入学の時期なのかが不透明なままだ。
 そこで、○の部分に何を入れるのかで、区別せざるを得ない。

 単純に、「の」が、思い浮かぶところだが
 「や」の方が、新入やクラス替え時期の瞬間の気持ちを強く押しているように詠める。

 この時、「に」を入れてしまうと、
 隣の相手からのアプローチを受けているようにも思え、印象がぼやける。

 「で」だと、周囲の誰かがそれに気がついて、色をうかがっているようにも詠める。
 「の」は、もっとも平凡で客観的な詠みになる。どっちの時期かなんて或る意味どうでも好い。
 ‥しかし、卒業間近にもなって、これな悠長な気持ちに詠んでいるようでは足りなすぎる。



|ものさびし別れを惜しむ窓辺咲き


 上の句の場合、課題になるのは、
 普通に詠めば別れの連想から卒業を思うところだが
 卒業に非ずとも、終業式と共に別れることになった同級生への想いかも知れない。(転校生)
 または、担任教師が次年度移転することへの想いかも知れない。

 と言った風に、別れの対象が定まって来ない。
 なぜそうなるかは、窓辺咲きを見ている側の対象が広いことにその要因がある。


|ものさびし泣く奴もいて門出咲き


 次の句のように直すと、泣く奴もいてという範囲で述べれば
 教室か体育館など、生徒の側という意味合いが強くなる。
 ‥でもまぁ、門出咲きが見えているとなると、主に教室だとしても、渡り廊下かも知れない。
 ‥中には職員室に駆け込む奴も居るだろうな。


> と言うところで、窓辺咲きor門出咲きを用いる場合


 心情を語るには適しているが
 対象となる時期、場所が曖昧になってしまう点に注意が伴う。
 ‥無理に説明を投じようとすると、季語がダブることになりそうな点が悩ましい。
 ‥もっとも、多少曖昧な方が心象風景としては粋に見える。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 18:27 | Comment(0) | 提案熟語 | 更新情報をチェックする

2016年03月10日

【プレバト】教室と桜、俺も詠んでみた

記稿.2016/03/10

|教室でひとり花見かこの先も‥

|「咲いた!」うちが分校に新入生

|窓見れば 花路来たる転入生

|分校生 なかよくわらう窓辺咲き



稚草

 ‥また、桜かよ。
 しかも校舎と教室違いなだけだし


 などと思いつつ


 ちょうど、「のんのんびより」をチェックしている途中だったので
 分校を舞台にして詠んでみた。

 分校の説明をせずに、発句のその度合いを実感するのはなかなかにしんどいかと。
 ‥ということで、二句目がかなり苦しくなり・・自由律調になった。


> こんな字数の掛かる課題ばかりを投じやがって
> ‥ということで、「窓辺咲き」を春の季語に認定しよう。そうしよう。ちゃんちゃん。


 窓辺咲き【まどべざき】‥教室から見える&校庭に咲いている花木の光景。三月または四月頃。


|窓辺咲き 思い出す度あの子かな


 ‥しごく簡単に詠めるようになる。凄ワザだ!
posted by 木田舎滝ゆる里 at 22:33 | Comment(0) | プレバト俳句 | 更新情報をチェックする

【経過】今月のWindowsアップデート201603

記稿.2016/03/10

> “Windowsサービスのホストプロセス”だけ通信許可の状態でも
> 今月のWindowsアップデートがあっさり通った。


 ‥ということは、それこそネットに繋いでも、概ね見聞のみの利用者にとって
 他のWindowsサービスの通信許可はほぼ無用であることが判明。

 ブラウザーがIEに、チャットに、TV電話に、データドライブとして双方向通信なんて使い方の人は
 まぁそういうわけにも行かないと思うが、
 とりあえず怪しいと思ったら、許可を与えずに塞いだままでも良さげある。


> 例の如く‥再起動をした後の挙動にてんてこ舞いした


・ ATOKユーザーデータマネージャー(ATOK28IB.EXE)の三重重複が発生。
・ Windows Modules InstallerがCPU使用率50%を示す。
・ Windows Installer共々気持ち悪いので、モグラ叩きするが、ゾンビ復活しまくる。

 ‥是はどう見ても、木馬の引っ越し工作にしか思えなかったのだが


> 何度か再起動を繰り返した後


 何気に、ATOK28IB.EXEのファイル状況を確認したところ
 Cドライブ内に、一つしか検索ヒットしない結果を経た。
 ‥つまり、今回のアップデートで
 その辺りのOSの穴がふさがったのだと思われる。(是は評価できそうだが‥)

 OS側がファイルとして検出しないのなら、木馬とて利用のしようがない。
 (‥しかしまぁ、他の部分は相変わらずで、妙な重複ヒットが出まくるままだ)


> 結果的に、Windowsのインストールサービスの挙動はなんだったのだろうか?


 除去ディフェンスか?それとも攻撃ディフェンスか?木馬の足掻きだったのか?
 ‥その辺ちっとも分からんぞ。


> それにしても


 「テレメトリ関連のKBファイルはやっぱり当てといた方が良いのかな?」

 ‥当てといた方が、良いような気がするのだが
 とりあえず、来月のアップデートまで様子見である。
 アップデートの度に、木馬の振る舞いらしき挙動が続くなら、当てておいても同じだ。
 それで起きないとしたら、意味のあるパッチということになる。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 16:19 | Comment(0) | パソコン悩ましいZ | 更新情報をチェックする

2016年03月09日

【アイデア】ヘルメット&ライフジャケットの収納スペース

記稿.2016/03/09

 折りたたみヘルメットの提案は以前からあるようだが
 収納スペースについての提案はどうだろうか?

 それは、特に地震においては、揺れている最中どこに居るかでもある。

 一般には机の下が推奨されはしても、反射的に棚を抑えていたりするものだ。
 高層ビルなら、激しい共振に見まわれでもすれば、机の下とて安全ではない。

 ‥そう考えると、必ずしも机の下が安全というわけでもないが

 家庭内であれば、机の天板の裏側に折りたたみヘルメット&ライフジャケット&避難シューズが
 備え付けられていると、嫌でも手間が省けることになる。


> どのように設置するかが腕の見せどころになるが、机の天板の裏側が一番に混乱せずに済む。
> そのような、デスク規格はまだ無い。


 ‥ついでに言うと
 ヘルメット&ライフジャケットに救難センサーを備え付けるべきだと思う。

 電波(救難周波数)をキャッチして、それを電気に変換して、さらに電波を返す。
 備え付けの都合上、電池がいつ切れるなんて分からないのだから、
 そんなパーツが付いていれば、電波の届く範囲で救助捜索が行き届きやすくなる。
 (課題は、ただのパッケージ状態等との識別をどう見分けるかになる)


> できれば


 折りたたみヘルメット&ライフジャケットを納めていた収納部を
 取り外してバック利用に持ち歩けると尚良いと思う。

 ‥慌てていては、開いた箱を元に戻すなんて人の割合も少ないとは思うけど
 とりあえず、それだけを剥がして移動したいという要求もあるはずだ。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 13:42 | Comment(0) | 目の付け所をナス/2016 | 更新情報をチェックする

2016年03月08日

【短歌】おほほほの世界観‥十四射

記稿.2016/03/08

|花園や 女子力などと言いながら「ございますわ」と順位付け

|自らをか弱きなどと思い込む 猫をかぶった上から目線

|健全と純情ぶって育つほど 自己中 DQN 中二病

|愛情と自由いっぱい育てても 萌え萌えキュンキュン極天然

|すじ通すおなごに育って 恩返せ おのこめのこをふるさとに

|女ほど上しか見ずに育っては おねだりばかりのバカになる

|綺麗だと思い込んではそれっきり 女の目利きは自己陶酔

|かわいいと無駄に欲しがるそのくせに 野郎のコレクションに「けがらわしい」

|許すのか許すまいのか もやもやの プライドばかり愛情ぞ遠し

|貴高さに 恋焦がれて得るものは 男運ぞ弱き狭き門

|わるいのは自分なんだと視点から一歩も譲らぬ逆うらみ節

|夢を見る箱入りセレブの暮らしなど 苦労の否定 感謝の否定

|バランスに生きたるおなごの食ぢから 作るの食えのてんてこ舞い



稚草

 ‥などという、如何にもオタクなタイトルアニメがどんなもんかとチェックしているうちに
 こんな詠みになりましたとさ。

 「さて、それぞれどんな作品だったでしょうか?」


> 娘がかわいいと言ったって


 バカに育てた覚えは誰にも無いのにそうなっちまうのは
 お前らの頭の中が、{豊かさ}={箱入り}という公式にしかなっていないからだ。

 豊かさの中で育っちまうと言うことは
 あっちこっちほっつき歩き放題というのが相場でしかない。
 浮気放題の甲斐性無しのその通りになってるだけじゃないか。

 箱入りでできることなんかそれこそオタクの世界だろうに
 素直な子として、まったくその通りになっただけじゃないか。


> まずは、{豊かさ}≠{箱入り}とした自然の理の実際を自覚すべきである。


 「頑張ってお母ちゃん、女房をらくにしてやろう‥」とか
 「箱入りにしてやれなくて申し訳ございませんでした」‥などと思い悩む野郎ほど‥実は
 箱入りにしておいておいしい思いにあやかりたかったかもと自分を責めているだけである。
 ‥まぁそうなるよな。競争世界にて果たせる確率は所詮1%なんだからな。


|好きになる理由を射て欲し恋路でも 一緒に居たしぞ無条件


 「お前らの憧れと想いが、ぶれていること自体が
 「極くだらねぇ場面を蒸し返していることに、いい加減に気がつけや!ボケッ」
posted by 木田舎滝ゆる里 at 21:45 | Comment(0) | アニメ | 更新情報をチェックする

【アイデア】エコな聖火台案

記稿.2016/03/08

 太陽光でお湯を沸かして、
 湯気立つ水蒸気をスクリーンにしてプロジェクションマッピング
 夜は蓄電しておいた電気で大型スクリーンに投影。

 聖火リレーの灯火は、鍋に投じて消えざるを得ないが
 投じる場面に合わせて、プロジェクションを同時に点火させれば格好が付く‥

 如何にしてナチュラルに見せるか‥
 如何にして聖火を捧げるかを考えたら、こんなイメージだろうか。


> でも水蒸気に映像をどれほど投影できるんだ?


 ‥裏の技術ではすでに可能という話も聞くけどな。
 日本発で宣伝しちゃうのも良いかもね。

 まぁそんなことよりも一番にやり玉に挙がるのは天気だな。
 曇っていると太陽光ダメだし、雨なら尚更だ。
 電気で沸かしても、火と同じ扱いになりそうだしな。
 ‥その前に、聖火を持ち込む自体がダメとか。そりゃダメだ。


> だったら始めから競技場自体を聖火のデザインにすりゃ良かったんだよ。


 そうすりゃ、外で点火でも、
 点火と同時に☆全面LED装飾☆という演出も有りだったと言うことになる。
 ‥まぁはっきり言ってどうでも良いけどね。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 15:35 | Comment(0) | 目の付け所をナス/2016 | 更新情報をチェックする

2016年03月07日

【宇宙な?】人類が唯物論に陥らざるを得なかった理由

1-3)記稿.2016/03/07

> サルトルを囓ってみたら見えてきた‥人類が唯物論に陥らざるを得なかった理由。
> ‥WWU後、世界を一世風靡した哲学者サルトルはこう言っている。


 「人間の本性は存在しない。
 「その本性を考える神が存在しないからである。
 「それゆえ、人間は自らの本質を選びとった上で、未来を作り上げなければならない。」


 ↓ 前提をなす基本概念。


 「実存は本質に先立つ」

 ※ 実存、今ここに在る存在。
 容れ物が先に登場するものの、何が入るべきかは後から定義される。
 ‥人間という何かが先に登場はするものの、人間がどのようにあるかは決まっていない‥との定義。

 神が先に登場していたとしても
 神ですら、人間ひとりひとりをどうのようにすべきかは決めていない。
 ‥それを示すかのように、哲学が導かれている。


 ↓ 決まっていないからこそ自由だと語る。(だが‥サルトルの求める自由は角度が少し異なる)


 「人間は自由である。人間は自由そのものである。
 「もし一方において、神が存在しないとすれば
 「われわれは自分の行いを正当化する価値や命令を眼前に見出すことはできない。
 「われわれは逃げ口上もなく孤独である。
 「そのことを私は、人間は自由の刑に処せられていると表現したい。」


 サルトルの考え方に信仰や宇宙観など一切無い。そのような飛躍を枝切りしている。
 お墨付きなどどこにもない。真実をどうこう価値付けるかも私たちだとしている。
 あくまで人間中心主義である。今ある人間の持つ許容がすべてであるとした現実主義でもある。
 ‥人間であるがゆえに、どうするべきかを根っこに据えている。

 人間の存在性・抱え持つ性質の矛盾すべてをそのままに認めた上で、敢えて
 その意味を定義せずに、放置されているとして位置づける。
 サルトルは、そこに見えたわずかばかりの開放感に自由を見出す。

 だが、確信など得ていない。
 ‥これとした何かを得たいなら、自分で選びとって、未来を勝ち取れとしてそこで終わるのだ。


> 哲学と言うよりは、決意証明のように思える。


 善も悪も問わず、あるがままを見つめざるを得なかったWWU後の世界に
 この考え方は実にシンプルに映ったのだろう。
 ‥そして、そこにあった色合いを、人類の多くが、神との決別として解釈したことになる。
↓/続きを読む/↓
posted by 木田舎滝ゆる里 at 21:56 | Comment(0) | 哲学/宇宙的に | 更新情報をチェックする

【事案メモ】第三者機関という無駄を省く為に

記稿.2016/03/07

◎.逮捕は依頼、警備は命令、捜査判決出来レース
◎.司法に権限あるのなら高等裁判こそが格差を訴訟せよ!
◎.三権に司法の本音を聞く機関なし。司法の役割主張は判決のみ!


◎.正しさの独善防止の三権に、今や第三者機関の用を説くばかり‥
◎.第三者機関とは四権の用なり‥では政府とは、行政とはなんだろうか?


◎.選ばれて権限を手中にする。それは正しいのか?それに意味はあるのか?
◎.労働組合のような庶民の側に立つ第三者機関があるとすれば、それこそが政党だが‥
◎.ならば、野党こそが第三者機関を担えば良いはずだが‥


◎.なぜ政党は、選挙に負けるとただの反対党に陥らねばならないのだろうか?
◎.負けても第三者機関としての立場と権限を任せれば良いじゃないか、野党とて政党なんだぞ


◎.第三者機関を新たに設置するなんて、予算の無駄だ、野党に担わせれば良い
◎.野党に権限を譲って与えないから、議員数がより無駄に、遊んでいるように見えるのだ!
◎.国民の投票率が下がるほどに、官僚のイスの数が増える傾向は甚だしい

◎.なんの為に選挙制度があるのだ?それは官僚なり政治の独善を危惧しての抑止制度のはず‥

◎.選んだ価値が、野党の黒星で無効になるのは、選挙制度の意欲を半分にしてしまっている!
◎.ならば簡単だ。だからこそ、野党が第三者機関の役割と権限を担えば良い。それが公平だ!
◎.与党と言えど、投票率からの支持は半分にも届いちゃいない。野党にも分があって良いはずだ!


 立法(議会)
 司法(裁判)
 行政(与党政府)
 三督(野党連合)‥第三者立場役回り機関の仮称


 そもそもの問題は、官僚の勢力図が、与党寄りに偏ってしまうことにある。
 官僚と閣僚の談合状態は望ましくない。

 嘘または曖昧偽装の情報を閣僚に上げた官僚は、裁判に処するようにすべきだ。
 (つまり、野党が与党になって再び野党になると目を付けられるまたは訴えられる)
 (公文書がそのまま証拠になる)

 三督の下に付く役人は、行政権を担う立場にはないが、書類の作成は求められる。
 あれやこれやの指摘をするための資料を、定期的に公的機関から掻き集める立場になる。
 (行政官僚からみれば、体の良い左遷先に映りそうだが‥適正次第か)
 ‥形は、どちらかと言えば、司法寄りに見えるが検察でも警察でもない。
 ‥第三者立場として公的機関の監査を担うというのが目下の意義になる。
 ‥公的機関を監査できる権限の発生する点が新しいが、行政側に黙秘権を許しては無用にハマる。

 ついでに

 司法の本音を吐き出せる受付役機関としての役割を担わせれば良い。
 ‥尤も、行政権限があるわけではない。
 ‥ただし、そこからの事案を国会に持ち込むことは可能だ。
 ‥内閣ばかりが、法案を投じているのは、三権制度を阻害してしまっている状況だ。
 ‥裁判官の意識・意欲としても課題に当たる。
 ‥そもそもにして立法の立場が弱すぎる。それは司法のフィードバックの弱さに比例している。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 01:07 | Comment(0) | 日記/2016 | 更新情報をチェックする

2016年03月06日

【アニメ】あまかった2.2倍速再生の聴き心地

記稿.2016/03/06

 ‥映像を2.2倍速で再生させると、アニメならあっという間に1クールを突破できる。
 だが、よくよく聴いていると
 どうしたことか、それぞれの作り方の違いから、必ずしも聞き心地が良いとは言えないようだ。


> つまり、予算の関係で、経費削減の方法が二通りあるように思われる。


 1.OP&EDの時間を多くして、場面ごとの間を詰めるパターン。
 この場合、声優には短い時間感覚での喋りが要求される。
 ゆえに、2.2倍速で再生させると、どうしても聞きにくさが表面化する。

 2.概ねで不要な場面数を削るか、動きの少ない場面を所々に配置し
 声優の喋りと効果音の流れで間を合わせて、テンポ重視で構成するパターン。
 この場合は、2.2倍速で再生させると聴く分にはちょうど良いが、激しいアクションを見るには不適。


> 古いアニメや無駄にゆっくりすぎる作品の場合、2.2倍速より二倍速の方が聞きやすい場合がある。


 ‥このような一面を鑑みては
 ビデオ機器に備わるような特定倍速にしか再生できないというのは
 大ざっぱな対応でしかないと言わざるを得ない。

 一方で

 ドキュメンタリー映像など、2.3倍速再生でもイケる場合もある。それはそれで
 かなりの集中を必要とするので、5〜6時間それを見続けるのは厳しいだろう。
 その辺りのバランスを考えると、二倍速は妥当だとは思う。

 でも‥くだくだと長い台詞が、パッパと耳を通過して去る感覚は、二倍速では物足りない。

 2.2倍速になると、早読みしている気分に浸れるので、かなりクセになる。
 ‥アニメでありながら、マンガを読む速度に等しいかと。


> じゃ、マンガで好いじゃん。


 ‥いやぁマンガだと台詞が文字だし
 文字を見るとつい詩的な意識が動き出してしまうので‥ロスが大きいんすよ。
 それに‥童話の読み聞かせが好きだった一面もあるので、アニメは外せまてん。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 22:08 | Comment(0) | アニメ | 更新情報をチェックする

【哲学】意識論からの出発

記稿.2016/03/06

 唯物論こそ科学であるとし‥
 偶然の中から規則的な何かが生まれるよすががあるとして自然を信奉する。また
 その反対に‥自然そのものを偶然の賜として思い込んでいるのが現代に生きる多くの人々である。

 しかしそれでは、規則的な何かをうみだし得た奇跡を「不自然」と呼ばざるを得ないのである。

 その誤った定義で問うならば
 私たちが規則的と思っている宇宙の科学法則の方を「不自然」と呼ぶことになる。
 これでは、不自然性から生じた奇跡こそを普遍性であるとして、「科学だ」と叫んでいるに等しい。
 ‥随分と不可解なトンチンカンを言い放っているのが、現代人の科学見解と言うことになる。

 ゆえに、偶然を唱えてしまう衝動こそを「非科学的」と、定義できるのである。


> では、その非科学的と思しき偶然衝動は、どうして多量的に発生し得るのだろうか?


 誰しもがそう思うのだ。その反応はすでに自然的な作用に至っている。偶然などではない。
 私たちはその認識し得る感覚を、どうしたって「意識」と呼ぶのだ。

 意識が誕生したのは、超自然的なことである。偶然などではない。
 必然とも、当然とも、法則的根源にあるとも支持できるのだ。

 ならば、宇宙に意識は普遍的に満ちていると言えるだろう。

 むしろそう考えた方が自然である。
 だとすれば、すべては私たちの暮らしと同じように
 意識のやり取りが、宇宙に絡んでいるとした宇宙観&歴史観を抱かずには居られまい。


> 私たちの意識の内に、善と悪、多様性を理解する認識が備わる以上
> ‥宇宙の側にも、そのように在るとして、受け入れざるを得ないのだ。


 「私たちが科学と向き合う時、悪を消滅させたいと望むだろうか?」

 否、むしろそれを望むのは悪の方だ。
 悪として善の消滅を望むのだ。だから対抗せざるを得ない。
 無論私たちの日常は、科学をそのような手段として用いることを望んではいない。

 うまく調和させることで、破壊的なエネルギーとて創造的に活用できるはずだと考えようとする。
 ‥私たちが科学として求める形とは、そもそもにしてそのようであるはずだ。

 しかし、宇宙的に見た場合、それら力の制御はとても難しそうである。

 ならば、普段から気持ちが乱れてしまう‥その程度の浅はかな私たちに
 宇宙の奇跡たる意識のバランスの前に、云々言えるような立場はまず無いと言えそうだ。


 それでも、意識が意識として成長を遂げる為にも、私たちには自由が許されているのだろう。
 ‥では、その自由の尊重を以て、宇宙の唯物的なる思索を続けることに何の意味があるだろうか?

 そこにあるべきは、もっとワクワクとした感情であり、
 何ができるのかとした好奇心にあるべきである。

 大いなる存在たちは、其を感謝として表現することを人間に期待している。
 ‥そう考えずして、私たちの人生が、尊べるエネルギーで満ちることなどない。
 ‥地球の現実を見れば、明らかだ。


> 一方で


 意識は自由なのだから
 「太き同意」と「細き同意」が、それぞれに宇宙に蔓延していることになる。

 私たちは、その太き同意の姿を一生懸命に物理法則だとして追いかけているにすぎない。
 細き同意を、人間の醜さとして嘆いているにすぎない。

 私たちが、科学に魅了されて、太き同意の正体を突き止めることに夢焦がれているのなら
 同時に、私たち人間の方も‥自由ゆえに互いの意思の身勝手さを越えて、平道を勝ち得なければ、
 宇宙の太き同意に触れることなど叶わないだろう。

 なぜなら

 宇宙は、弱き私たちが偶然だと思い込みたいほどに
 実際的には、徹底的に管理し尽くされた空間にあるからである。されど
 如何なる管理に置かれているかに思い悩む必要などない。天の川の輝きを見れば一目瞭然だ。

 だがしかし、どれ程の細き同意が散らばっているのかにも、同時に注意を払うべきである。
 ‥思い悩むべき必要があるとすれば、それは私たちの日常とさほど変わらない所にあるはずだ。


 「もはや、天体や大地には意識が満ちており、
 「意識のあるがまままに、関わり続けていく次第を私たちは受け入れるべき時期にある。」
posted by 木田舎滝ゆる里 at 18:14 | Comment(0) | 哲学/宇宙的に | 更新情報をチェックする