記稿.2016/03/02
> 原始時代のイメージの参考に‥原始少年リュウを見てみた。
|ライバルと肉親捜しで引っ張った原始少年リュウは叫びかな
‥という感じの作品だった。
(昭和アニメに絡む、こてこてライバルの登場は、もうお腹いっぱいで沢山です。)
掟破りとか、奴隷とか、恐竜とか、兎に角はちゃめちゃだったが
追いかける方が途中の村に先回りして、白い肌の奴には悪魔が取り憑いているとか
‥原始時代にそこまでの宗教用語があったのかどうかは、まぁどうでもいい。
(有史的には、実際に降臨してきて色々と吹き込んだそうだ。その時にお金の概念も教えたんだとか)
で、作中には、奴隷のオークションまで描かれていて
‥それはさすがにより強力な統治がないと無理だろうと思った。
そもそもにして、現れる村現れる村の統治力と言ったら、部落でしかない。
‥中にはウエルカムな村もあって、弱肉強食に偏っていないのは普通に人間ドラマだなと思った。
> そんな中でも興味を引いたのが
まじないを身につけて村に戻ってきた祈祷師の話だった。
長として君臨する為に、「神のお告げじゃ」「怒りじゃ」を一生懸命に村人に吹聴する。
‥なるほどなるほど、周りは火山の噴火に地震に恐竜という恐怖がありふれている。
‥神がなんであるかなど分からずとも、それの空気で大いなる存在を感じてしまうと言うことか。
> では、その概念はどうして思いついたのだろうか?
神が降臨してきたという有史視点ではなく
あくまで純粋にその概念を発見することは可能なのか?‥をちょっと考えてみた。
思い当たったのが、あの教え方だ。
「私を信じよ。私の名前を呼べ。私に祈れ。」
‥まさに現人神の如き口調である。(神なる言葉を特に使う必要は無い。)
それで、その御仁の居る村にだけ被害が出ないとか、厄が避けて通るとか
べつに預言なんぞせずとも、周りが勝手にそう思い込み始めることになる。
さらには、「○○様の御陰だ。」として、鰯の頭も信心からとばかりに語り継がれることになる。
‥頼るべき拠り所としての、伝承信仰の誕生である。
‥その御仁の名前が、そのままに神を意味する言葉に変わるのだ。
そんな奇遇な村に遭遇すれば、ちょっとずるい輩なら
‥小馬鹿にも、俺もやってみようということになるのだろう。
‥そして、そこから、村人を操縦しやすいようにオリジナル要素を加えることになる。
> で、現実的にそうなる確率は?
確率で考えたら、そりゃ、気まぐれだろう。それこそ奇跡の確率と言うことになる。
神なんか居ないんだからとした見立てなら、それはそれで
それこそ、祈る力こそが、福も厄も呼ぶのだとしなければ
‥信仰の誕生を説明できないという落ちになる。
恐怖の気持ちで祈ればその谷に
救いの気持ちで祈ればその沼に
感謝の気持ちで祈ればその丘に
結果として、祈る時の強さ・集中力・リラックスが欠かせないということになるだろうか‥
教え諭す側の‥「平和とは何か」を具体的にイメージできていることが大きいのだろう。
そこに圧倒的な確信が漲っていると、うんちくを省いていきなり土足でまくしたてるのだ。
‥それはもう聞かされる方が、唖然とするね。
「私を信じよ。私の名前を呼べ。私に祈れ。」
> しかし、それで通るんだったら、そんな訳分からん祈りより、実を取ることになる。
薬草知識、畑作技術、防壁土木、簡単に扱える強力な武器、宝石類の加工、天文。
‥それぞれに能力を発揮した御仁もまた神として尊ばれることになる。
「文明あるところに神在り。
否、汗と感謝在り。汗と感謝こそ福なり。汗は祈りなり。」
‥こうして学問が誕生することになる。{学問の国}={信仰の国}={神々の国}