記稿.2016/03/03
・理由に意味なんか無い。目的が大事。
・ありのままの自分を受け入れろ。
・課題の分離。
・共同体感覚。
‥という感じだった。
基本的に自由人としては、まぁまぁ聞き心地としては満足な流れだった。
しかし、ふと気がついちまったんだ。
理由に意味なんか無いんだから、したいことをしろと勧めている訳だから、
そこには善悪の概念が伏せられている。
‥とくに課題の分離は、決定的である。
シロアリ官僚からしたら‥分かりました、課題の分離を致しましょう。
利権をかざせる立場を活かして合法的に利を取りに行きましょう。
‥と言い放たれても、頑張ってくださいとしか言いようが無くなる。
そこを慮ってか、アドラーの考えには突如として、
平等や共同体感覚などと言った理由付けが登場するのだ。
‥理由なんて要らないんだろう。目的賛歌なんだからさぁ、
‥どうして後から理由を足してるの?それは、あんたの願望でしょう。
‥課題の分離を主張してしまっている段階で、あんたの願望だよ。チーン。
> このパターンは、デカルトに似ている。
「われ思う故にわれ在り」‥そこから一気に二元論に流れるというお粗末は
どうしたって突飛だし、そこの間のつなぎがまったくない。
双方共に、自分を見つめるところから始めるのは良いにしても
そこから全体を見ようとした時に、確かなものが得られていない稚拙さを感じざるを得ない。
> 経験的観察の結論をそのままにぶちまけるのは、哲学とは言い難い。
> ‥ちゃんと解析して、並べて説明してくれないと私的な見解だとして叩かれる。
アドラーの考えには、
課題の分離と共同体感覚を繋げる説明が欠けている。
コンピュータにたとえれば、分散化処理の必要を説いているにすぎない。
では、なんの為に分散化処理をしてまで、それを導き出す必要があるのだろうか?
この場合は、自分の人生の役割と言うことになる。
しかも、共同体感覚を唱えたことで、各々の自由にあった人生選択が
‥いつの間にか、全体の為にと言う目的を見出すようにとすり替わるのだ。
一方では
極端な言い方をしている。他人の人生に責任を持つ必要は無いと言い切っているのだ。
‥そこから始めないとどうにもならないほどの症候群を抱えているのが普通の人々だと言いたげだ。
それは目的がはっきりしていないからだとして、切って捨てる。
そしてそれは、目的がはっきりさせられるほどの世の中になっていないことにも原因が挙がるだろう。
‥でも、そこに立ち止まるほどの価値などない。必要なのは目的だと、アドラーは語る。
> 何に目的意識を抱くのかは他人の自由であるのに、いつの間にかアドラーの考えがのし掛かるのだ。
> ‥では、どうして共同体感覚が正しい方向性だと説けるのだろうか?説いているだろうか?
自由の必要を否定できないのと同じぐらいに、課題の分離を否定できないのなら、
そこには、どんなことにも目的が隠れていることになる。
その目的が、仮に人類滅亡だったとしても、
きっと、全体にとっても意味のあるものだという解釈をしなければならない。
共同体感覚として、先天的に備わっているという見方でしか説いていないのなら
なんにだってその見方を当てはめてみざるを得ない。
‥それでは、目的にすら意味があるのかどうかも分からなくなるだろう。
‥とりあえず、何をするべきかは、課題の分離だとして先に当人が片付けてしまったのだから。
あるがままの自分を受け入れろというのなら、
グチグチ、グダグダとしている姿にも、用を見る必要があることになる。
‥アドラーが何を信じて語ったのかなどどうでも良い。
‥それが当人の語る、課題の分離への解釈がもたらすまちまちさなのだ。
> 毒にも薬になる。まぁ他人のものの見方なんてものは、往々にしてそうなもんさ。
> 述べるまでもない、そこは著生にも当てはまる。お花畑で生きたいなら囓らずと良い。