改稿.2016/04/20...20160311...
> 窓辺咲き【まどべざき】‥教室から見える&校庭に咲いている花木の光景。
> 主に春の入学時を指すが、振り返る時にもその心象を指して用いる。
和歌の世界で花と言えば、桜の花を指すのが決まり事であるように、
窓辺咲きと言ったら、学校・校庭・校舎・桜・入学・教室
をひっくるめたニュアンスに限定しても何ら問題ない。むしろそうでない状況の方がおかしい。
‥というのを思いついたわけだが、少々の問題点を含んでおり、扱いには多少の注意が必要だ。
(卒業については、門出咲きで表す案が思い浮かんだのでそれに譲る)
例えば(参考)
|窓辺咲き隣の席○片想い‥このまま退くのか?攻めるのか?
‥の場合、卒業の時期なのか入学の時期なのかが不透明なままだ。
そこで、○の部分に何を入れるのかで、区別せざるを得ない。
単純に、「の」が、思い浮かぶところだが
「や」の方が、新入やクラス替え時期の瞬間の気持ちを強く押しているように詠める。
この時、「に」を入れてしまうと、
隣の相手からのアプローチを受けているようにも思え、印象がぼやける。
「で」だと、周囲の誰かがそれに気がついて、色をうかがっているようにも詠める。
「の」は、もっとも平凡で客観的な詠みになる。どっちの時期かなんて或る意味どうでも好い。
‥しかし、卒業間近にもなって、これな悠長な気持ちに詠んでいるようでは足りなすぎる。
|ものさびし別れを惜しむ窓辺咲き
上の句の場合、課題になるのは、
普通に詠めば別れの連想から卒業を思うところだが
卒業に非ずとも、終業式と共に別れることになった同級生への想いかも知れない。(転校生)
または、担任教師が次年度移転することへの想いかも知れない。
と言った風に、別れの対象が定まって来ない。
なぜそうなるかは、窓辺咲きを見ている側の対象が広いことにその要因がある。
|ものさびし泣く奴もいて門出咲き
次の句のように直すと、泣く奴もいてという範囲で述べれば
教室か体育館など、生徒の側という意味合いが強くなる。
‥でもまぁ、門出咲きが見えているとなると、主に教室だとしても、渡り廊下かも知れない。
‥中には職員室に駆け込む奴も居るだろうな。
> と言うところで、窓辺咲きor門出咲きを用いる場合
心情を語るには適しているが
対象となる時期、場所が曖昧になってしまう点に注意が伴う。
‥無理に説明を投じようとすると、季語がダブることになりそうな点が悩ましい。
‥もっとも、多少曖昧な方が心象風景としては粋に見える。