記稿.2016/04/10
> 司法が頑張ろうとすると、何かと冤罪の引き受け屋にしかならない
‥そういう権威構造はどう考えてもおかしい。
立法を取り扱うのが議員だから、志を持つのは議員立場だけで
司法関係の人材は、そこにあるべき志を示す必要がないと言わんばかりだ。
(黙っていろと言うのではおかしい)
民主国家を論ずる上でもそれは稚拙としか言いようがない。
そこで、単純に著書でも出せば良いだろうという話になると
それは学者の仕事だろうと言うことになってくる‥
> ただ、国会で可決された法に基づいて判決を下すのが司法
そういう内訳で明治維新以降‥ここまで来てしまっているのが実際だろう。
そこで、司法のメンツを保とうとしても、
良いとこ、判決時に権威から覆す文言を捻るというだけに留まるか、
権威にヨイショして冤罪をでっち上げてまで勝ちを誇ろうとするかのどちらかでしかない。
そんな構造に据え置かれているのが、三権分立を前提にした司法の立ち位置である。
> ずばりここの問題にメスを入れて行くには
> 参考票という考え方が必要になる。
立法という権限の中に司法の投じ分を勘定しだせば、
「三権分立の理想が‥」などと言いはじめだし、切りの無いところになりそうだが
参考票として、司法側の考えという所をその都度示しておくことは重要だ。
原案に対して、司法側の見解は賛成:反対である。
改善案に対して、司法側の見解は賛成:反対である。
それがちらついている上での国会討議。(そんな感じ)
‥そうでも無いと、あの選挙のオマケのような辞めさせたい司法のなんとかというのを
誰も正確に判断することができないままだ。(どっち側の意見だったのかぐらい知りたいところだ)
(尤も、すべての法案に対してそれは無理というモノだろうけどね)
> 立法に対する司法側の参考票の考え方として
司法から代表を選び、その中で多数決を司法の意見とするか
それとも、司法に関わる特定層全員からの多数決を司法の意見とするか
まぁその境目をどう考えるかはあるだろうが‥
どちらにせよ
司法の側の見解を、国民が知ると言うことは重要なポイントである。
中世西洋で言えば、教会のカリスマ意見ということになるが
日本に於いてそのような概念はあまり深く浸透してこなかった。
日本でも、高僧という立場はあったかも知れないが、
それにしたって役人側の判決にあれこれ言える程の権限など無かった。
精々が‥竹柵越しの袈裟投げに、駆け込み寺としたお約束が理解されて根付いていたに過ぎない。
明治以降の西洋化の流れで、日本の文化からそれが見失われたのも
主な役人の判断のみが正しいとした科学観に現を抜かすようになったからだ。
そこにある人間上位思考は、そもそもにして日本古来よりの文化では無い。
> 黒船に学ばざるを得なかった明治維新から
日本人の根っこを貶めているのは、何はともあれ、司法が死ぬからに他ならない。
‥あの西洋の「汝の隣人を許せ」‥つまり、許せんとす文化圏から学べるコトなど一つも無い。
一神教だから、許せることと許せないことが克明になる。
多神教だから、よほどのことでもない限り、曖昧にも寛容さを垣間見せるのである。
それを昔の日本人は不公平などとあまり考えなかった。そこは概ねで、「運」解釈だった。
‥運を引っ張る為にも、人との繋がりを疎かにすることなく、穏やかに暮らして来た。
そこの根っこに、亀裂を入れてしまったのもまた明治維新だった。
理由がなんであれ、そこは否めないのである。
> 何の為に法律を学ぶのだろうか?
「裁く為ですか?、守る為ですか?」
その守るという立場としての意向を示し難いから、やる気にもならないし応援する気にもならない。
‥努力の甲斐に乏しいのが今の司法の状況である。田畑と同じだよ。