1-4)記稿.2016/04/13
> どうして女らしい女、男らしい男は減ってしまったのか?
そこを突き詰めてみたら、戦後昭和のある頃から
井戸端会議をしている親の姿に無関心だったという所に行き着いた。
むしろそれは、“ダセー”という言葉に集約されるのだろう。
そうだ。親のしている‥主に母親のそれになるが、
井戸端会議の光景は、昭和のテレビ世代の少年少女たちには
どうでもよさそうな日常の無駄な付き合いに見えていたのだ。
だからだろう。地域の付き合いというのが尚のこと下手くそになった。
‥むしろそれは、うっとうしさにしか思われていない。
> それは、なぜそうなったのだろうか?
それは、言うまでもない‥テレビがあったからだ。
そして、何だかんだと平和だったからだ。
‥戦争中だったら
そのコミュニティはささやかであれど、必然だった。頼みの綱だった。
子供にしたってそこは肌に染みて感じ取れていただろう。
しかし
テレビに魅了されるようになると、日常の会話の中身もそっち寄りになった。
まずは、テレビを見ていることが、日常の条件になってくる。
その結果、まずは、子供の意識から井戸端会議への関心が薄れていった。
‥大人のあれは、時間の無駄という見方を抱え込んで大人になった。
‥将来にしても都会志向がもてはやされ、尚のこと学力路線、地域コミュニティは化石と思い込んだ。
‥糞どうしようもない上から目線の鉄壁の官僚構造・資本重視の礎になった。
> 誰しも大人になれば、多少なりともコミュニティを形成して、基盤に据えるわけだが
でも、どうだろう、便所めし世代ともなるとそれも積極的に始めるという風にはなかなかなるまい。
‥便所めし世代には、親のしていた井戸端会議がダセーとかの感想を持つ機会も得ず
‥気がつけば、携帯端末に夢中になっている大人の姿を目にして憧れている。
それはもう
情報に繋がるには、そこが入り口というなぞらえにしか映っていないのかも知れない。
それは、個室を当てがわれてうきうきしてるような感覚なのだろう。それのさらなるバージョンか‥
そしてそこに形成されるのは、顔が見えずとも文字だけのやり取りでOKとの思い込みだ。
‥そこにある落とし穴に気がつかないままに大人になるのだ。
そうだ、自分の文章読解力以上の指摘を問われることがない。
‥そこには、緊張感も信頼感も培われるよすがを見いだせないままだ。恐怖しかない。
サイトには様々な書き込みがある、色んな見方を学べるよすがはある。
自分の思い違いやおぼえ間違い、地域レベルでの独特だった何かを発見することもある。
でもそれらはあるだけだ。
自分への直接の指摘がのし掛かってこないと、実際には自己研鑽には至らない。
‥せいぜいが、他人の罵り方を覚えるだけになる。
‥せいぜいが、無駄に攻撃されないようにとして、己の無知をのさばらせるばかりだ。
‥分からないことはすべて、答えてくれるサイトで確認すれば好いと考える。
‥とにかく、無難に避けて通ることばかりが身につくことになる。(誰も否定やしまい)
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