2016年05月01日

【哲学】日常に絶対善など無し

1-4)記稿.2016/05/01

> 善悪の哲学を始めるとなぜかよく提示されるのが、遭難×生き残りである


 ‥その時
 ご丁寧にも、一人でも生き残れる可能性という奴が、なぜか最もな顔をしている。
 そこに初歩的な疑問を向けないのはどうしてだろうか?

 状況に於ける‥最善、理想などと考える以前の思考材料として
 誰がそこに居合わせたのかという事実こそが重要だ。

 仮に、その者らの中に、一人でも生き残れる可能性という主旨を抱いていないのなら
 何事もなく、浪に身を任せて、全滅もやむなし‥それも本望というのがルールになる。

 でも、大抵はそうではない。


> なぜか最もな顔で、誰しもは、多少の犠牲はやむなしの選択肢を模索する。
> それしか知らないかのように主張を繰り返す。それはなぜだろうか?


 ‥遭難して一人の場合、生き残れる可能性は概ね低い。
 その理由として挙げられるのが、知識の量と体力の制限だ。
 しかし、人数が多ければ良いというものではない。
 全員がパニックを起こすだけの集団なら、どんなに知識が揃っていたとてなんの役にも立ちはしない。

 ところが

 一人でも冷静に行動力を示せる者が居たとなると、随分と状況は違ってくる。
 それでも、パニックを起こしている側が協力を始めても、大抵は途中でこじれるのだ。
 ‥それは頭が冷静さを取り戻しても、腹が冷静にないからだ。肝が据わっていないとも言う。

 日常‥陸の上でなら、意見が違えば‥分かれて行動すれば良いだろう。
 でも、遭難と言うことになると、
 そこは舟の上かも知れないし、打ち上げられた見知らぬ浜辺かも知れない。
 舟の上なら分かれて行動はできないし、見知らぬ浜辺から去るとばかりに舟を持って行かれても困る。

 つまり

 如何なる条件を連ねてみようと、根っこは同じだ。
 {遭難}={分裂できる選択肢をお互いに持てない状況}
 ‥という図式にしかない。そして、それはすべてに共通する。

 ‥かような状況下で
 「多少の犠牲を求めれば悪、出さないで事を進めるのが善」
 人はどうしてか、本能のように‥ただ漠然とした倫理観を前提に物事を考えているものだ。


> そのような倫理観は、どうして漠然としたままなのだろうか?
> どうして、それを自然体だとして扱わないのだろうか?
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posted by 木田舎滝ゆる里 at 14:35 | Comment(0) | 哲学/一般 | 更新情報をチェックする