向宜詠吟.2016/06/20
それは誰に向けられた笑顔だろう
その笑顔はどっちを向いているのだろう
いずれにしても、内向きか、外向きかのどちらかだが‥
‥否、そうじゃない
闇の中で微笑むとしたら
それは光の方を向いているはずだ、否、光だろう
内向きだろうと外向きだろうとそこに大した差など無し
されど、人はどうしてか外向きをもてはやす
それが光の性質だからだろうか?
同調を欲しているかのように
外向きに放たれた光を求め、追いかける‥
「光を求めることは、本当に光としての同調からだろうか?」
自らが光でも闇でも、さらなる闇から注目もされていよう
‥光であれば
闇の濃淡など気にするまい、それは照らした先にしか興味が無いからだ
その反対に、闇からは光がよく見えるのだ。そして光の強弱に敏感だ
光はのんきにも
闇の中での戸惑いなど知らずと
あからさまな状態をそのままに理解する
微笑むように‥視線の先が光線として照らされるばかりだろう
そしてわかったように
知ってることの区別から、あれこれと判断を下して言いよる‥
光がより強いのなら、より多くの闇が明らかにされるだろう
‥そのより多くの違いを知って、どうしようもなき発見浴に浸っているのが人間だ
しかし、闇からも注目されるのが光でもある。
闇に生くる者にとって、突然の光は、ありがたいだろうか?
そう思う者も居れば、そうではなく畏れる者も居るだろう
余計な存在など知らなければ、内向きの光でも十分に満足していられたのだ
どうしたって、光が差すことで、内向きは侵されて外を向かざるを得まい
「ならば問おう、満足であれば幸せと言えるだろうか?」
それはまた「外向きに輝けていられれば幸せと言えるだろうか?」との問いでもある‥
少なくとも、人には、外向きの方が圧倒的に人気が強い
‥そこに有るのは何だろうか?
本当のところは、光なんて闇からの旅人を呼び寄せるばかりだろう‥
それとも、より強い光からの注文・忠告・お節介と言えるだろうか‥
また、旅人であれば、もてなされたくて仕方がないという文化浴の延長線だろうか‥
より強い闇であれば、なんでこちらから良くしてやらなくてはならないのかとの愚痴だろうか‥
そんなちぐはぐこそが共鳴だというのなら
そんなちぐはぐな繋がりこそが‥
否否、ちぐはぐを選別することこそが極上のお楽しみと言いたげじゃないか
そんな面倒くさい選別をし合って、あれこれオモシロオカシク言い合うぐらいなら
‥始めから自分と向き合うのも同じだろう
自分と向き合うのは、始終の付き合いなのだ
それがもう、端から選別のしようがないほどにお気に入りなら
それはもう、笑いが止まらないと云うことだろう
そんな人をテンネンと思えども、闇などと云う輩もまた居るまい
それなのに、傲り高ぶるばかりの闇にしか見えなかったというのなら
それは見た人が、そう思った人が、否、お互いに
本当のところは、外向きの笑顔しか知らなかったという事なのだろう
それはそれで、自分と向き合って大笑いしたことが無いという告白にもなろうか‥
人として、それはそれで、勿体無い生き方をしていると思う
> うた詠み終わります、ありがとうございました。