記稿.2016/09/02
夏井いつきは、いつも句またがりを奥の手とばかりに手直しをする。
生徒には、五七五をモットーにさせ、
テメエだけは、自由律半分な句またがりで、のほほんと切って捨てる。
> だったら始めから、自由律もありで添削しろよな、フェアーじゃない!
どうにも俺は、本能的に、そういうところにカチンと来ていたらしい。
> 俺的に、句またがりの見解は、ミニ短歌だと思う。
連歌という調べが省略されて短歌に下ってきた。
上の句だけのリズムを拝借して整わんとしているのが俳句だが、
それにしたって、下の句の存在感として、二つに句切れていた持ち味はどこ行った?
‥とした不快感は募るのだ。
そういう主張は当然にしてあっても好いわけで、否定すべきところではない。
だがしかし、それを一連とした俳句の定義の中に偉そうに持ってこられても、
ルールとして如何なるものかと思わざるを得ない。
そんなのはどうにも十七音句でしかない。
少なくとも従来的な俳句ではないし、新しい風潮ということになる。
(そもそもにして、古来から受け継いできた五と七の調べでは無いのだ)
(そこを‥俳句という名のままに羊の皮を被ってやっているところがおこがましい)
> それでいて、如何にも俳句に思わせんがためにと‥
> 中七を重んじさせようなんて事の運び方は、まさにそそのかしのテクニックそのものだ。
始めから句またがり有りきを前提としているなら
そこの句またがり論を展開すべきだし、
‥其も有りとするならば、はじめから中七を重んじる云々に意味などあるだろうか?
(本質は、どう考えたって十七音&季語だけである)
先生の空気を読んで、同じ流派の調べを醸し出すなら才能アリなんて言うのは
どう考えたって依怙贔屓そのものだ。(俳句を翳してやるなよな)
句またがりの一七音句は、
どうしたって五七五のリズムなんかではない。日本古来からの抑揚を前提にしないのだ。
> 如何にもなんちゃってのツラをして、従来の俳句(五七の調べ)を切って捨てんばかりである。
それで好いのなら、自由律で詠んでもらっても全然かまいませんよと言うことにもなろう。
‥それがダメなら、夏井いつきは、フェアー精神無き教卓ヅラということになる。
詩人であるというのなら、まずはその句またがりのスタイルに名を称するべきなのだ。
‥それができていないという段階で、流儀の主張の大事がわかっていないとしか思えない。
> 十七音句を、二つに区切るようにして詠む・詠みたいにしても
> どうして十七音でないとダメなのか?
そこのところで、どうしても「?」になる。
それは俺が平気で字余りを持ち込む性格だからかも知れないが
二つに区切って詠むことだけを前提にするなら、それはすでに短歌の類だと思っている。
なら、十七音をルールにするなら「十七音歌」とでも名乗れば好いじゃないか。
‥短歌との違いも把握していないからこそ、体言として浮かばないのだ。
それとも、夏井いつきは
十七音歌を俳句と勘違いしたままに、バッサバッサと切り捨てたいだけのキチガイなのかな?
‥まぁ、なんとなく半分はそんな感じか。
これもすべて、五と七の調べを葬り去りたい在日放映の仕組んだ思惑だったりしてな。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 20:03
|
Comment(0)
|
プレバト俳句
|