向宜詠吟.2016/12/28
|辻斬りの手合い尽きねど月の霜 いつもの事と退けに見ゆ
まず、今回折った句ですが
「退けに見ゆ(しりぞけにみゆ)」の「に」‥
これが「つ」の場合とどう違うのかと言うことです。
「退けて見る屍」‥まるで倒れた敵の顔を確認するかのような意思の表れ(興味あり)
「退けに見ゆる屍」‥いつもの事のように何気なく見たような無造作な様子(興味なし)
> ちなみにネットでは
「つ」は[何(誰)がどうした]という意志または作為的な動作を表す場合に使うのに対して、
「ぬ」は[何(誰)がどうなった]という自然推移または無作為的な作用を表す場合に使う。
‥という説明がされています。
しかし、斯様な言い方は実に紛らわしいのです。正確に紐解けば
「つ」も「ぬ」も、活用と活用の接続における気持ちへの繋がりの区切りを示す完了
‥という次第になるかと。
> もう少し例を挙げると
「つ」‥落ちてしまえ 知ってどうする?
「ぬ」‥落ちに落ちた 知りにけり
「落ちてしまえ」とは、自分の意思の表れです。「知ってどうする」とは、意志からの問いです。
「落ちに落ちた」とは、経過の流れです。「知りにけり」とは、これも経過の流れです。
‥とまぁ、ここまで来ればおわかりかと。
つまりは、動作ごとに気持ちがあり、気持ちには区切りが入るわけです。
そこに区切りを付けて表す助動詞が、「つ」&「ぬ」と言うことです。
(連用形で比較すると、そこがよく分かるかと思います)
その意図がさらに特化して、助詞化したのが、「て」「に」に思われます。
ということなんで
物事の一動作に対して気持ちを切り替えるような意図を示す‥助動詞の言い回しとして
「つ」「ぬ」ともに、強意・並列の意味合いを兼ね備えていたという事になります。
> これこそが日本語の最たる特質なのかも知れませんね
‥外国語の翻訳&義務教育(画一的な国語教育)による
「つ」「ぬ」「り」「たり」を簡易化した活用語が明治から始まって今に至るわけですが、
外国語と日本語のニュアンスの徹底的な違いが、そこにこそあったと言えるのです。
> なぜ、「日本語」とは呼ばずに「国語」として扱ってきたのか?
> ‥それは、外国語とは決定的に異なる要素を、朧にも感じていたからのように思われます。
是に見る、一動作ごとの気持ちに区切りを付ける言語が他にあるかどうか知りませんが
英語学習上の日本人の苦手は、どうにもそこの違いにあるように思えます。
外国語にも、同じようにそこのニュアンスがどうなっているのかを前提にしてしまうのでしょう。
しかしまぁ英語のノリを思えば思う程に、発想や解釈自体がまるで異なっています。
どうにもそこにあるのは、気持ちの切り替え・区切りと言うよりは、切り捨てなんだと思います。
‥それがまたどうにも割り切れないと。
> うた詠み終わります、ありがとうございました。