向宜弁論.2017/07/11
> ゴールが決まっていれば答えはあれど
> ゴールが決まっていないなら始めから答えなど無い
その時、人は如何なるか?
@、信条・心情に沿って生きる
A、欲に堕ちて生きる
B、自由気まま‥適当
C、とくに何もしない‥する必要がない‥意味が無い
> 目的を持ち、目指すことはゴールだろうか?‥否、答えだろうか?
ゴールを目指すこともまた欲の一つに違いないと思えば
信条・心情に適っていようとも、欲に堕ちて生きているのとさして変わるまい
(欲が薄いか濃いかの差がそこにあるだけだ)
ならば、そこに賛同があるかないかの意識が欠かせない要素として浮かんで来るわけだが
賛同する側が、各自の都合による気まぐれでしかないなら
それら賛同にしたところで、然したる意味も無かろう
‥気まぐれでない関心事と云ったら、そりゃお互いに命に関わる事柄と云うことになるが
それにしたって、命と云えば、自分たちの奪い合いによる崩壊がもたらす所の方が多い
生き残る上でのあざとさにばかりに目が行き、手を取り合う方向への意識はおぼろだ
無論、手を取り合えばどうにかなるという事ばかりでも無い
日常の多くが、手を取り合わずとも成り立っているがゆえに
ついつい、お互いの命のかかわり事ですら日常のままに切り替えが下手くそにある
‥だから、ここでは、基本的な意味での寿命の長い短いということになる
> ということは、不老不死はゴールだろうか?
それにしたって、生き続けて尚答えを識らぬのが不老不死のゴールだろう
ならばそれは、一日の生き方の中に於いて、不老不死に適わぬ行いをしないことに尽きるのだ
寿命が激しく消耗するような大ばくちなどもってのほかと云うことである
(搾取などまさにそれよのう‥搾取の反作用が己に降りかかるばかりだろう)
そこに理解があり、すべきで無いこととすべき事の判断が付いて、そのままに生きるなら
何を好き好んで(未達ながらとばかりに)目標など掲げる必要があるだろうか?
その者は、すでに目標を達成しているような存在そのものであり、
ゴールの中で暮らしているような存在そのものだ
つまり、
ゴールに居るとした自覚が有るか無いかだ‥
自覚が在るなら、すでに答えの間に生きているとなる
> そこに、もの足り無さはあるだろうか?
私たちはそれの実を理解し得ないがゆえに
むしろ、足り無さを感じていないと生きられない思考形態のままにある‥
その様を以て、「不自由」と問わずに何と問おう‥
> 「不老不死」とは、命の無限を識りて為しているところの自覚と充実より始まるのだ
(充実していないと思ったら消耗があると言うことよのう)
(無自覚でもどうにかなると思っておるなら、すでに論外じゃて)
> 修弁させていただきました、ありがとうございました。