2017年08月05日

【弥勒論】07 消費よりまずは健全な営みだ権(第一章01-07)

向宜弁論.2017/08/05

 そもそも、資本と投資の商習慣には、消費活動は当然との思い込みがある

 随分と自惚れたサービス精神の押し売り原理だ

 又、真に受けたように
 消費したいが為に、カネを得たいだけの建前労働意欲にしかないなら
 消費してもらうことへの説明に始終しなければならない

 (それが売る側の程度、もとい‥資本原理の程度である)
 (結果的に、所有することがステータスとの自惚れを喧伝するばかりだろう)

 ‥なんて自慢げで、小賢しいのだろう‥

 持てる側にしたとて、否、持てる側ほどそんな小賢しさにはうんざりしている
 生活に必要か‥実用に於いてよく創意工夫されているか‥
 買い飽きてしまっている段階に至れば、そこの批評はますます以て手厳しい

 (それでなくても、人生に飽きは付きものだ)
 (否、飽き前提が投資の根っこにある‥どれも小賢しい一品だ‥)


 ‥売るノウハウよりも、まずは作るノウハウ
 ‥作ることの自由より、まずは必要か否か
 ‥支持されているか?(継続に意味を保てるかどうか)


> ‥もちつもたれつとは言え
> 目の肥えたテメエでさえ買わねぇもの(恥)を売りに出すべからずにあろう


 ‥しかし、ただ生産したいだけの衝動にしても、抑えようがない
 無償労働だろうと当人の意欲が衰えを知らないようなら、その活動を誰も止められやしないのだ

 (ビーバーがダム工事を本能とするように)

 でもだからといって、斯様な側が
 必ずしも手先起用、アイデア満載、実用十分とは限らない‥下手の横好きとの言葉もある‥

 (ビーバーの活動の質を、人間側が理解でき兼ねているだけかも知れないが‥)

 ‥それでも悪質にない限りにおいて
 ただ消費を貪るだけの輩よりは、ずっと評価されるだろう
 それを逆に問えば‥本物を見る目が肥えており、それ以外に興味を抱かないのも同じ扱いになる

 (無駄に消費しないと言うことは、そのままに環境への労りでもあるからだ)


 ‥適度に活動する暮らし向きが、自然体にあるというのなら
 生産活動のそもそもに、返済の為の受注や雇用拡大の為の請け負うに、はじめから意味など無い
 ただ、作る側の意欲の尊重こそが、健全な消費環境を育むと云えるだろう

 そこを、消費規模拡大とした競争云々を焚きつけ合うだけでは
 恥を掴まされることが無くなるなどとした切望と文化向上にはほど遠い


 (無いモノへの投資を前提にした消費期待なんぞ、そもそもにしてキチガイだ)
 (しかものその先行投資に自慢げだ、夢見がちで他人任せのくせに見返り期待も甚だしい)
 (そして、今あるべき繋がりには、もう未来がないと言わんばかりだ)
 (基礎研究も準備も中途で、他人の妄想をどれほどに共有出来るというのだね?)

 (今あるべきが疎かでは、儲かるからと浮気がちでは、未来など訪れようがない)

 (それでなくても、誰しも、専門外は素人だよ)
 (専門分野での有能かどうかより、明らかに生活者として素人を実感することの方が多いはずだ)
 (だから、誰しも再就職が大変てことだよ)


> まずは、生活が成り立つ便利を作っていただく為の最低限の優遇が、公平に謀られるべきである
> これをそのままに、「消費よりまずは健全な営みだ権」(略して健営権)とでも申そうか‥


 ‥憲法25条の生存権の物足りなさは、つまり
 創造と生産への配慮を欠いた消費の為の生存権問答に成り下がっており
 憲法13条の幸福の追求権にしたところで、他者からの貪りもOKの印象だ

 ‥アメリカ製憲法批判にしたって、そもそもの明治憲法自体が黒船参考の付け焼き刃だった
 明治を基準に据えた言い分からして、本末転倒で怪しいのだ
 結果、戦争技術の輸入と戦争行為の出荷がされた時代の反省としての憲法9条である


 ‥その後の改善に求められているのは
 黒船経済からの戦後経済からの脱却、汚点の洗いざらいによる一新だッ
 そうで無いなら、日本製憲法として、胸を張るになんの魅力も無きにあろう



> 修弁させていただきました、ありがとうございました。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 08:44 | Comment(0) | 弥勒論 | 更新情報をチェックする