↓5)向宜詠吟2018/08/09
|青鷺よ君はカントかデカルトか 浜松市東区天王町
|青鷺よ君はカントかデカルトか 日々ぶらぶらとバキューム食い
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> 考え方の道理を理性に求めて、その特徴を理解し得ようとも
> ヒトのやりたい欲求は異なっている
> 理性のスタート的解釈が、道徳としての水準器に生まれ変わろうとも
> ヒトのやらかすことに、後悔、反省、改善に至る反芻が見られないなら
> 理性なんて持ち合わせていないも同然じゃないか!?
そんなのはあれだよ
‥青鷺が自分の人生を満たそうと獲物を丸呑みするのに必要な理性の量を見逃しているだけだよ‥
> 個々の欲求に必要な理性の大きさが違っているのに
> もっともそうな理性批判なんて始めから成り立つわけが無い!
> それすらも問えない職業哲学に未来なんて在るわけが無い!(鵜呑み野郎!)
> 哲学のそもそもは、理性の有り様における啓蒙に至るべきだったように思われる
‥それがなぜだか
ヒトの自由において、自由を縛り上げる理性など不用・不自然というのが時代の展開だもんなぁ
ニーチェ哲学を最強として、どっぷり学んじゃってる人たちほどそんな感じに思わざるを得ない
‥「思う」と「在る」の分離が始まるとまさにそんな落ち度に嵌まり込む
「自分には責任がございません」と嘯(うそぶ)くすすめの如しだもんなぁ‥(ばーかっ)
‥此に哲学的な訂正を加えるならば
「思う」と「在る」には距離が存在している
二点の距離がゼロに向かうように、努力するかしないのかの差こそが「理性の強度」かもなぁ
> そこに義務はあるかって?(そういう批判からやらかしたのがカントだよ)
‥理性の強度に挑戦するかしないかで
明らかにヒトとしてのパフォーマンスに差が出るようなら、やらざるを得ないだろうよ
実際そこには、仏教の定着した日本流と、していないグローバル世界との差があるわけだよ
(実証済みなんだぞ、諸君!)
(カントだって、DQNな批判からやらかしているようでも、当人は厳格な義務遂行者だ)
‥今時代に日本流を以て疲れやすく思われるのは、理解の不一致が発生しているからだ
主義の交錯した世間様でのスムーズは、険しいばかりだからなぁ
(不器用なくせに主義だけ変えて、本音は昔のままというのが倦怠感のそもそもだよ)
(欧米化しちゃってるから、主義も本音も食もごっちゃだろうからね)
‥まずは、自由批判からやるべし
いくら自由でも、自分の許容を超えると途端に詰まらなくなる
思ってもいないのに在るが押し寄せてる状態だよ(そういう時代色だからなぁ)
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