↓5)向宜詠吟.2018/08/24
|蝸牛あじさいの葉を上りつめ梅雨ぞらの風首ふり探がす 三島市・銀杏樹の会(8-11)
|カタツムリあのスピードで茎登坂 あのスピードで何度も登坂‥orz
*茎(くき)、登坂(とはん)
> ‥蝸牛が紫陽花の葉に居たりするのは、湧いて出たからでは無い
> その茎を這って登ってきたからだ(あのスピードでである)
ヒトに例えたら、マンションの壁をボルダリングで登る感じだろうか‥
> それを何度も何度も繰り返すのだ
> 思うに、登坂好きなんだなぁと今更ながらに気が付いたよ
‥のろまな癖に登坂好きとは、得手不得手の概念が覆った思いだなぁ‥
|学校田泥に成りきり田植済む 掛川市・句会あさかぜ(8-10)
|やり出せば泥になりきる田植かな 挑む広がり死ぬ気の太か
> ‥泥の田んぼに足を踏み入れ、いざ田植である
> 初めての視界にふと思った
> 昔の田はそれこそ地域一体に広がっていた(しかも手作業だ)
> そりゃ、自分ところの受け持ちはその一部に過ぎないわけだが
> ちょっとした豪農なら見渡す限りなんて次第もあっただろう
> ‥勿論雇ったりしただろうけど
> 雇われる側とてそのただ広さを前に、すべこべ抜かすより死ぬ気で挑まなぁならなかった
> 地主一族自ら田んぼに繰り出そうとも同じことだ
その手作業を、春と秋で繰り返してきたのだ(田植と稲刈り)
> ‥それはもう、死ぬ気の覚悟だったに違いない
> そんなだから
> 出征ぐらいなどと、ちょっと出掛けてくる気持ちのところも有ったかも知れない
> 皆で協力が前提ということで甘っちょろい鬨(かちどき)気分を漂わせていたかも知れない
> そのぐらいの「死ぬ気の覚悟慣れ」に麻痺感もあったのだろう
‥それ程の苦労を
土地さえ有れば、俺も欲しい、もっともっとの勢いだった(厭わなかった)
(ガキの頃からその風景の中に立つというだけで、板に付いちまうんだろうなぁ)
> ‥現代はどうだ?
> 田植機&稲刈り機を引っさげたって、好き嫌いを言い始める始末だ
現代人の口にする「覚悟」の薄っぺらさに思わず気が付いちまったさ
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