2018年12月15日

【哲学】デカルトVS.幸福の追求

↓4)記稿.2018/12/15

 ‥デカルト哲学と云えば、「我思う、故に我在り」に尽きるだろう

 この言葉の響きから得られる「私」たる何かをどう捉えるかという論点以外に
 大して目立った示唆が無いのもデカルト哲学の特徴である

 だから

 この言葉に従って、「幸福とは何か?」を論ずるならば
 「私」とは何かを理解し得ることにしか幸福の扉は用意されていない
 ‥と看破されそうだ

 そうでしかないのだろう

 ‥だから
 思いつきにも、浮ついた幸福願望を叶えたいと抱いている限り
 デカルト哲学なんざただのアレルギーにしか見えやしないのも現代社会だ


> 私たちが思い描いている幸福とはどんなだろう?


 デカルト哲学から問うなら、それらすべては
 すり込み、洗脳、思い込みの類にしか無く
 真っ先に疑うべき要素たりうる事柄ばかりとした解釈に据えおかれる

 ゆえに「我思う、故に我在り」を問い返すことになるのも現代だ
 今風に云えば「思考の断捨離」だ

 ‥デカルト哲学で幸福を語ろうとすると、その手の疑いをグルグルとせざるを得ない‥
↓/続きを読む/↓
posted by 木田舎滝ゆる里 at 13:12 | Comment(0) | 哲学/一般 | 更新情報をチェックする