2019年04月01日

【日記】三大怪獣がやって来た

記稿.2019/04/01

> つい先日に、春休み計画というヤツで、甥(三兄弟)がやって来た
> にしても‥二泊三日漬けでテレビゲーム大会とか‥何かがおかしい


 ‥一番下はまだ3才
 テレビゲームの推奨年齢は低くても4〜5才と云うことで気になっていたのだが
 文字は読めなくても、レースゲームぐらいならできるだろうと高を括っていたら
 「アクセルとハンドル」「射撃と方向移動」とした連動操作の概念をどうにも受け付けない


 ‥と言うことで、3才児いきなり遊びようが無い状況に突入ッ‥


 ‥色々と確認したら
 テンキーの4ボタンの操作すらまともにできない(左上にしか動かせない)
 他のことをやらせようにも、集中力は15分程度しか続かない


 ‥そこに救世主として登場したのが
 『(GC版)カービィのエアライド』だった

 勝手に加速して進むタイプだから‥左右方向バーと、なんだかAボタンで遊べてしまえる
 (ただし上から見る2Dモードになるとやっぱりダメで3Dコース限定だ)

 ‥兄ちゃん2人に優るタイムを叩き出して遊んでいる
 ご機嫌な時の台詞が
 「わかってる、わかってる」
 「これ、ちょうすごくねー」
 ‥などとチャラ男くんさながらの台詞を吐きまくる(これで3才児かよ)

 しかも、選ぶキャラの色のこだわりやら、1Pと2Pの画面割りの位置のこだわりやら
 好みがすんげーはっきりしている


 様子を見ていると1時間を超える集中力を発揮した
 (しかしまぁ多少満足し出すと集中力が分散し出す)


> 「ゲームやりたい」くさいのは次男坊もかわらない(春に小学二年生)


 次男坊と三男坊の様子を見ていると
 アホかと思うほど、相手の持ち出してきたモノに萌えるようだ
 次男坊の性格がまた根性悪というヤツで
 三男坊が欲しそうにすると、それをいいことに調子こいてもったいぶるような行動しか取らない
 はじめから譲る気からしてないから、いつまで経っても終わらないというどうしようもなさ

(見るからに優越感に浸りたいだけのお馬鹿丸出しだ)
(弟の扱いが無駄にやかましいにもほどがある)
(まったくもって世の中の競争社会の薄汚いパターンそのままだ)
(子供の頃からこの手の性格をそのままに熟成させては、大人に成ってもやらかすってことだな)

 ゆずる気が無いと言えば
 ゲームコントローラーということで
 自分は気楽に「貸して貸して」を口にしていても、自分からは交代を口にすることも無い
 なんというか、1人そういうのが雑じっていると、全体の空気は険悪そのものだ


 ‥しかしまぁ
 三才児はどうみたっておまけで付いてきた状況だ
 そこの塩梅をどう仕切るかだったが
 食後の一服ならぬ満腹感のところにプレイタイムを設けることにした

 ‥ゲームをさせるにも満足感を得るにも手頃だし
 決まった時間に遊べるとわかって慣れれば、不満も薄れるという事に成る
 そもそも方針としても、3才児に2時間も3時間もプレイさせるのを望ましいとは思わない


> しかしゲームというヤツは合う合わないというよりは、飽きるというか気分というのがある
> 同じことを繰り返すにも気分次第とした向きは大人だろうと否めない


 ‥色々と試してやらせていると、次第にそんなこんなの増長がもたげ出す
 ゲームの質にしたってピンキリだ
 そこで釘をさすためにも昔話をふっかける

 「昔はこの手のゲームを6000〜7000円をだして買っていたんだぜ(ポケモンコロシアム)」
 「いくらなら買う?」
 「3000円‥」
 「それだとCD一枚の値段だよ」
 「え?」

 「7000円もだして糞ゲーだったりしたらトラウマになるんだぜ」

 ‥こんな話を長男(春に小学四年生)に仕掛けると
 途端に集中力の度合いやら選択肢の取捨が変わり出す


> ‥それにしても
> 「え?」にはびっくりだ


 もはやゲームを買って遊ぶ概念が通じるのは、成人だけって世界のようだ
 CDだって学生がカネを出して買う時代には無いということなんだろう
 詩集なんか‥とくに死臭しかしねえって時代性だからな



posted by 木田舎滝ゆる里 at 17:40 | Comment(0) | 日記/2019 | 更新情報をチェックする

【哲学】キミといる時間を守りたい‥の反対とは?

記稿.2019/04/01

> 「キミといる時間を守りたい」‥是に含まれる大概の意味合いとは


 ‥多少の問題沙汰ぐらい大目に見てでも、平穏を保ちたい
 という保守的な視界という事だろう
 若しくは永遠性への希求の方を積極的に意図しての言葉かもしれない

 その辺りの奥行きは、キミとしている対象次第ではそれなりに差はあるだろうにせよ

 「キミといる時間を攻め取りたい」として言葉をひっくり返すと
 途端にそれは「責め」に通じることになる
 それは即ち、自分の思い通りに操縦したいという事になるだろう


> ‥恋とて、もとい恋だからこそ
> 積極的にあるべきと、脳裏のどこかに刷り込みすぎていては
> いつの間にやら「守りたい」が「攻め取りたい(勝ち取りたい)」に変容もすると言うことか‥


 相手を自分好みに改造したい欲求としての対象こそを「恋」とすり替える事になる

 単純に判定すれば

 自分好みに改造したいと思った時点で、恋愛感情としては、破綻への秒読みが始まっている
 つまりそれは再教育願望に他ならない

 (自然環境だろうと、ふるさと問題だろうと、そこは変わらない)


> そこに生じたパートナー間での違和感を取り除く上で、話し合っても解決できないことはある
> それを「立ちションスタイル問題」と置き換えても良い


 ‥お互いに許せる許容が異なっているのは人生の前提だが
 自分の身の周りに据えおくとなると、許容の度合いがまったく狭まるのも前提だ

 なのに、許容の幅を広げようなどとの気持ちがどれ程にあるかを、まるで考えていなかったりする
 想定外を予想もできずに「I love You.」とは糞すぎる


 ‥そもそも、ボケ役とツッコミ役の交代劇に不機嫌さを示しているようではどうしようもない

 そこにはもとから「心の支え」などとした‥恋愛観らしさなどなく
 一方的なツッコミを独り善がりに味わうしかない偽善たるどうしようもなさ‥
 若しくは、ボケ役にはまりたいとばかりに宗教含みだったりとするのだろう


(恋愛に対してこうあるべきと思い込めば込むのも又、其も宗教に相当し出す‥)


 どちらにしても、無器用の方が多い
 それはそのままに、ボケ役ツッコミ役の一方に偏った限定スタイルの要求でもある
 もとい、命令役としての願望の現れだろうか‥

 それとも、恋愛ゆえの酔狂したき欲求に歪んだ姿の現れだろうか‥

 ‥その人にとって
 独善的に酔狂したきスタイルの獲得としてのホップが恋愛だっただけかも知れない


> そもそもの第一前提として、とくに恋愛感情に求めがちな永遠性は過程結果でしかない


 守りたいも何も、立ち止まれないのが現実だ
 だからこその守りたい願望などとは、どうにも欲張りすぎている
 欲張りすぎている思いに、自然体は宿らない

(無性に斯様な気持ちが湧くようなら、何かの虫の知らせか‥どうにも火事場なのだろう)



posted by 木田舎滝ゆる里 at 17:25 | Comment(0) | 哲学/一般 | 更新情報をチェックする