↓1)記稿.2019/04/17
> 凡才は、事象における原因と結果をもたらす解の流れが一つに在るべきだと思い込んでいる
> だが、絶対的に解と法が対で一つで無ければならない証明など不能だ
> なぜなら、100%の同一ではなく、近似でも構わないのが宇宙的事象にあるからだ
> しかし、科学的な検証としては一つに在るべきだとした解釈を譲らない
‥これの差こそが、哲学と科学における多様とした意見の衝突をもたらす要因である
(もとい思考する上での接点を為す摩擦熱である)
‥科学とは何かより、技術とは何かを考えた場合
目的を果たせれば用は足りるわけだから、とりあえずの初期型が創出される
それから、使い勝手の諸事情から、改良が加えられるわけだが
この時科学は、技術としての解には様々な指向のあることを示唆する
ところが
科学の科学という科学的見解ともなると不思議なことに
科学の有り様を、技術の入れ子式同様に捉えることが、なかなかに険しくどうにも否定しがちだ
何分にもそこでは、意思を前提にしなければならなくなる
‥技術のそもそもは、私たちの都合で産みだされる
そこには明らかに主張があり、目的がある
だから時々において、アイデアの借用として、科学の力を借りることを受け入れている
受け入れることで、技術の無限性を信じている
‥しかし、不思議なことに
科学の発生を超自然的に捉えてしまうことで
科学にもデザインの余地がある指向性を受け入れなくなってしまうのだ
(誰しも宇宙の法則が宙域ごとに、性質や係数が異なるなどとは想定していない)
> では、なぜ性質や係数が違っていようと存在が成立するのか?
> もとい、そこを否定した思考が、力学が、成り立つだろうか?
それは、人間としたテーマに適った宇宙が成り立つための繕いが発生しているだけの事だからだ
それ以外の地場が発生するなら、そこにおいて‥ヒトが優先されるとは限らない
ヒトが優先されないなら、宇宙は如何様にも定義づけることが可能になる
しかし私たちは、ヒトを介してでしか思考することができない
つまり、私たちの空想は、ヒトを基準にした宇宙観しか用意できていない
そこから先の思考を「GOD」として、丸投げしがちである
> では問おう
> ヒトが成り立つ上での許容とは何か?
> もとい、「私」が構成される上で欠かせない条件とは何か?
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