記稿.2019/05/07
> 私たちが考えるエネルギーとは
> 発生と消失ゆえに、高低の差を前提とする
> 又、エネルギー保存の法則に従うなら、循環こそを前提にしなければ矛盾する
‥ならば、エネルギーとは
姿形を様々に変えるとした形状と共に、「多」であるとした形状を要求している
私たちの科学はついつい‥エネルギーとしての究極の濃縮度とやらを妄想してしまうようだが
そのような状態ですら、瞬間的にしかないのが本質である
‥なぜそうなのかというのも
すべてはエネルギーであり、循環してこそのエネルギーにあるからだ
(無論、変化に乏しい×滞った形状のエネルギーとしての形態も想定される多の一つである)
> さて、では‥すべてのエネルギーを意識の違いとして捉えた場合はどうなるだろうか?
‥ならば、始めから「多」に在ったのであって
強大な「一」からの分裂だったかどうかはおぼつかない
それとも、創造が始めに成し得た選択こそが、循環の夢だったという事になるだろうか
「卵を産んだ、卵から産まれた」
‥この二つは同義である
それこそがエネルギーとしての始まりだったと言うことになるだろう
‥もとい「意識としての変化、多様なる発散」と言うことになろう
> 次なる問いは、卵が一度にどのぐらい産まれたのかになる
> そして、それらに淘汰は予定されていたのかである
‥ビッグバンを卵の誕生に置き換えた場合、宇宙的に見て同時発生しないとした考えは怪しい
エネルギー循環からの作用としてなら、なにもエネルギーの焦点が一つだけという考えは怪しい
同時多発したところで何ら問題ない
(無論、それに等しいだけのエネルギー変移と規模を前提とする)
‥エネルギーが循環するものにあるなら
集束もすれば、発散もすると解釈して間違いない
そしてそれは、フラクタルな性質の中に在り続ける普遍性にあるのだろう
‥まして「意識」として扱おうなら当然の性質だ
私たちが「意識」をエネルギーとして扱うなら、そこには確かに収束と発散が在る
‥私たちの日常に其を当てはめれば
収束に向かう意思無き日々に、成果としての発散は適わず
発散たる節目を迎えようとの予定無き日々に、再構成されるべき試みの発動も又無い
(無論述べるまでも無いが、発散に至るには、それに相応した収束力が求められてくる)
‥是の意味の裏を返せば
早々簡単に発散点に及ぶような事象では、卵としての発生も単一的と想定されることだ
多々的に卵の発生を要求するなら、それなりの創意工夫をしないのでは難しい
ならば、淘汰を前提に物事は生ずるとした考えは、低位な発散点の思考と呼ばざるを得ない
(私たちの多くは、それほどに物事に対して熱心に積み重ねることをしやしないのだ)
(当然、そのような世界では、低位な発散点での発散しか起こり得ない)
しかしながら
高位な発散点での発散に及ぶには、其に相応したエネルギーの収束が求められる
されど、互いが互いに短期的な成果を性急にしか求めていないともなればどうにも無理な話だ
それはそうだろう
そこにあるのは「多」の尊重になく、「個」の尊重にあるからだ
(意識のありようとして、淘汰に巻き込まれるかどうかは、即ちそういう事だったと言えそうだ‥)