2019年06月28日

【考察】全体での「がまん」とは

記稿.2019/06/28

> 前記事:詩「一億総がまんしない貴族化」を勢いとノリで詠んでから考えていた


 ‥ここでの「がまん」とは何だろうか?
 ‥何を指しているのだろうか?


 ‥それはずばり
 新しく何かを開発すると、すぐに商品化してリターンを欲する上から構造
 と言うことになるらしい

 新しいモノが次から次にでてくると
 新しい世代ほど欲しがるわけだが、新しい世代ほど格差に敏感で
 押し付けられるのが大嫌いと来ている

 これってすげー矛盾なわけだよ

 でも、新しい世代ほど「がまん」を前提としていない
 それは「歩きスマホ」からしたって想像に難くない


 そもそも新しい何かがでると、それへの対応に追われるのが現場だ
 そのツケは親の帰りが遅い日常に繋がっている
 帰ってきても疲れた顔でとても会話どころでは無い
 そこに持ち出したい会話にしたって新しいモノに対する話題だろう
 当然、浮かない方向に流れるのは分かりきっているので
 そこだけは我慢して不満を溜め込んでいたりする

 それが今時の世代だろう


 昭和の頃はネットなんか無いし
 コマーシャル見てたってピンと来ない事の方が多かった
 新しいモノはそりゃ経済の都合上常にでていたわけだけど、どこかのんびりしていた
 それほどに回転率が早くなかったというのも有るかも知れないが

 まだまだ昔からの文化が、ワンパターンにも誰しもの生活感に違和感なく引っ付いていた
 その一つ一つが、生活感に無理なく密着するペースでやって来ていたように思う

 それはそのままに、すぐに商品化してリターンを欲する上から構造が異なっていたからだ

 ドル円相場が固定されていたとする見方も可能だろう
 固定されていたから、上もそれ程に利益の追求に躍起に無かった

 気づかされたのは、バブル期の甘い香りを味わってからのバブル崩壊後の円高地獄からだろう
 固定相場が変動相場になったと言うだけで、日本の雇用体制は瓦解した
 なのに今や口を揃えて、為替の変動相場こそ市場競争の本懐みたいに思い込んでいる


> そんなこんなで、今やすっからかんに別世界だ


 新しいことを知らないと時代に乗り遅れるとさえ思い込んでいる
 それの現れこそが「歩きスマホ」だろう

 そのすました歩きこそが、自分らの我慢できない蓄積の現れこそが
 こき使われていく雰囲気を拡大させているにもかかわらず
 それが嫌だと騒いでいるから、「じゃAIにしよう」になっている

 その上さらに、地球が壊れそうとか‥まったく以てお話にならないぐらいに滑稽だよ


 ‥まぁそんなだから
 面白いように、消費構造の掌の上で駄々を踏んで生きているなぁとしか思えない



 とまぁそんなこんなで
 がまんすべきとしたら、新しいモノには関心を示せど、無駄に欲しがらない
 本当に興味がある場合のそれは一択になっているはずだ


 ‥ビックリマンシールのコレクションを妻に捨てられたって話にしたって
 それだけ集めるのに、小遣いに的を絞った少年時代があったわけだよ

 (他は我慢したんだろうと思う)
 (その後の夫の変貌ぶりが極度の無欲だってんだから、きっとそうだろう‥)

 妻がそこをどう思おうと、一択であって、決して大人買いできていたわけでもない
 そこを全否定されちゃったら、そりゃ人生冷めるだろうよ

 (そんな一択少年の恋路の果てが、妻のその仕打ちでは何を信じて生きれば良い?)

 妻にとってのそれに通ずる何かがたまたま無かったからゴミにしか映ってなかったのなら
 妻の少女時代は、夫より経済事情が良かったのかも知れない
 ‥それにしたって
 そんな眼力でしか無いなら、子供を授かったとしても、子を見る力は悪母だろうよ(なんと残念)


> ‥まぁそんな感じで
> 我慢のしかたはケースバイケースだし、その度合いでは、手にしたモノへの愛着も変わってくる
> 一人一人のそこを無視して我慢の有り様を語るつもりは毛頭ない



posted by 木田舎滝ゆる里 at 21:27 | Comment(0) | 日記/2019 | 更新情報をチェックする