↓ 14)01 向宜詠吟.2019/08/10
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花びらのいくつ崩れて
蓮あらし焼津市・みずほ句会(8-9)
‥蓮池(蓮の花)は、冬枯れするとそれはもう残念なぐらいの枯れざまでーす
それはもう、桜が散ったあとの残念さとは月とすっぽんで最悪でーす
(まぁ蓮根畑の都合もあると思いますが、ともかく最悪の光景っす)
‥それに加えてさらに
風に吹かれても、まとまって花が崩れ落ちると聞いては、そりゃ詠まざるを得ないでしょう
(ということでこうなりましたん↓)
|蓮の花哀れを知らぬ栄枯映え 慈しみとは「迷い無用」
‥思えば、仏陀の生き様に迷いが無いように見えるのは
多くの迷いを相殺できる智慧と判断が、即座に湧いてくるからなのでしょう
何事も相殺できるだけの智慧(内なるパワー)と、繋がり(外なるパワー)があってこそですが
それゆえに、ドーンと構えていられるってことでしょう
凡人からすると、それか如何にも慈しみに見えてしまうと‥
凡人からすると、それか如何にも慈しみに見えてしまうと‥
凡人からすると、それか如何にも慈しみに見えてしまうと‥
> 凡人だったら、それだけの智慧で何をやらかすかというと地球環境の困窮でーす
> もう少し高度になると、誰かにやらかせる程度ですが、まぁ根っこは同じでーす
‥仏陀には、何が苦しみを近づけてしまうかを知り得ているので、凡人よりは明らかに欲求が薄い
仏陀に迷い(心残り)があるとしたら、己の用と不用のバランスでしょう
凡人が凡人である由縁は、欲求の是非が、自らを滅ぼす次第を理解していないからでーす
(論点を押さえずに、感情に任せて言い合っちゃってたりしちゃってます)
わかったつもりで、思いやりが大事などと口にする割りには
ガッツりと我が儘を押し通して、尚、都合が悪ければ知らん顔だったりまでやらかします
‥それらは、後々的に迷いをもたらす因果に跳ね返る仕組みっすので
無慈悲パワーが経験則で、迷い無き姿に見えざるは、慈悲パワーとは明らかに異なりまーす
> まぁ正確に述べれば、「感謝」も迷いを誘う反作用の類でーす
‥自身の成り行きをどうしようかと決めるのも、それに後ろ髪引かれる迷いみたいなもんすから
感謝を思い込みにも絶対善と決め込むばかりは、経験不足からの軽率でーす
(だからといって、感謝しなくてもいいと思うのはもっと軽率でーす)
> ヒトそれぞれの気持ちの出入り口の様子に、一切興味を示さずに思いやれるわけがニャー
‥まぁ半分は「無知」からくる迷いだから、学問させるべき歴史が求められたって事だろうけど
いい加減、無知症候群からの横並びに甘えてんなってのが時代の空気なわけさ
それなのに
‥消費は絶対安全みたいに人権だからと思っているのは明らかに無知
‥人権保障の範囲で治安はしますけど、直接的な被害が無いと取り締まれませんのであしからず
というのが正しい見解だった(誰もすべてを先んじて文言化などしようがない)
仮に、先んじて文言化できたとしても、そんなのは単に不自由さの押しつけだとしか思われない
つまりは、あなたのその消費生活は不完全が前提ですので何かあったら訴える事は可能ですけど
痛い目を見るのはあなたが基点にならざるを得ませんよってことでーす
その上、裁判等の費用もあなた持ちが前提ですよってレベルっす
(神道や仏教が定着した環境で育った日本人のすれ違った人権意識の誤差がそこにある)
> ‥ところが欧米化して後
> 競争だからとか、より稼ぎが得られるとか、お得だからとか
> 誰もが、欲求に絆されるままに無駄をやらかすように至った
> そんなのは、それこそ無知で低すぎくんな「しめしめ脳」ってことだよ
(今じゃすっかり、神道&仏教脳復活で、ネット情報共有ですぐ炎上)
‥それでなくても、私たちは未熟なので失敗をしでかしまーす
その手の失敗すらカバーし合うより、人事査定のネタにしていてはボロボロ脳ってことでしょう
そこを甘えんなと言ってしまっては、人道に非ず外道でーす
(上に行くほど忖度を要求し合う世間体で育った日本人には、そこの甘えの質の差を区別できかねる)
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