↓1)記稿.2020/05/14
‥「安定」と「不自由」は似ている
私たち人類は、奴隷制度とやらに敏感でよく比較する。
結果、「自由」に洗脳されてしまっている。
しかし、良く考えてみよう。
労働解放と言ったって、労働は必要だ。
労働ができないことで途端に退屈しているのがコロナ禍での実際だ。
だから、私たちが欲してたのは、「自由」に非ず「安定」だった。
その「安定」を得る為の話し合える「公平」だった。
その「公平」を効率よく手っ取り早くエリートに期待してしまったのが人類の澱だ。
そのエリートらがしていることと言えば、分け前の独占だ。
能力が有るからより多く貰えると言い倒し、挙げ句の果てにやらかしてるのがイス取りゲームだ。
だがそれも実態を曝けば、王族たちによる使役の在り方にほかならなかった。
> 私たちの誰がお家主義を否定できるというのだろうか?
‥天国の門に入るにしたってそうだ
天国とは即ち、お家主義の総本山のような立ち位置だ。
天国に入るにも、天国のルールに従わなければならない。
> して、天使らはエリートだろうか?
> もとい‥エリートらは天使たるに相応しい手本だったろうか?
‥宗教任せ脳だった人類は、まんまとその罠に嵌まった
神とて「考える葦」だったということで、ドジもあればズルもある
勝負手もかませば、ポカもやらかす存在だった。
ならば、地上のエリート如きはどうだろうか?(無論、遠く足もとに及ぶまい)
その程度だ。ならばどうするべきだったのか?
‥よりミスを減らす為の話し合いこそが課題だった
それをエリートらは、「自由」を「競争」に履き違えて先導してきた。
リーダーに必要な能力とは、まず周りの話を盛らさずにそらさずに聞く姿勢だ。
何の為にそれをやるべきかと言えば、それが公平とした心掛けの始まりだからだ。
ならばその点において、「見通せる能力」はチートだろう。
だが、エリートの求める才能とやらはそうではない。
まず、如何にして丸め込めるかとした話術だ。
それも如何にして上手に責任転嫁できるかとした才覚だ。
それがそもそもの競争社会での処世術になっている。
‥そこには、私たち人類の呆れた回答があるばかりだろう‥
> 誰がどう見たってそれは悪魔の所業だ、天使としてあるべき姿には映らない
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