2020年12月02日

【コロナ禍】どこを見ているかで解釈に差がありすぎる

記稿.2020/12/02

> 感染は拡大すれども、死亡率は低下しているとか


 ‥そんな情報を鵜呑みにしていると「営業させろ」
 ということになり
 休業を要求するなら「補償を上げろ」
 という事ではあるにしろ

 前回の問題点が露見しているのに(嘘申告)
 そうそう同じ給付云々を踏襲できるわけもない


> そもそもにして


 感染患者が増加すると医療はてんてこ舞いとなり
 その影響で他の患者の死亡率が増加する傾向を誰も否定できない

 つまり、感染拡大を大したことないからと鵜呑みにしていると
 足元を掬われるだろう要素に変わりはない


> 政府の対応が遅いとか


 太平洋戦争を回避できなかった大本営が
 太平洋戦争を止めるに止められずにいた大本営が
 走り出したら止まらない精神構造だった大本営が

 まさに乗り移ったかのようなGoToやりだしたら止められない傾向は

 どう考えたって、民族としての体質と言わざるを得ない
 その程度で、対防衛を実力行使できるようにしようとか‥筋違いも甚だしいz

 結局、始めると止まらない政府体質だったと露呈させているだけである


(まぁその点、変わったばかりの総理に期待しても酷すぎるけどな)
(シン・ゴジラみたいに、捨て石でも良いと思っているタイプでないと無理だったと‥)
(無欲な顔をしているようでいて、実は、皮算用駆け引き猛烈タイプだったと‥)
(その手のツテも無く秋田から出て来て、その立場を得た筋書きなら、そういうことでしょう)


> 一番に手っ取り早い給付策を一部の民度の低さから封印せざるを得ない状況
> お陰で、休業要請と給付額がマッチしないというオチっすね


 はっきり言って、ここでの問題点は
 営業の方の給付であって、個人のそれでは無いのに
 なぜか個人のそれ前提のマイナンバー推進とした見当違いが
 政策成果になると思っている連中が、官僚にも多いらしいと言う事でしょう


 営業の方の紐付けが前提であるはずなのに、そうでは無いというのが実に不可解しい

「どう考えたって、マイナンバーどうのなんか頓珍漢だから」
「登記も無いのに申請が通った事案がそもそもにして異常事態だからッ」
「その程度の管理体制に信用なんかあるわけねぇ!!!!!」


 営業の方の給付はこの先もずっと申告が前提です
 個人の方だけマイナンバーと紐付けできれば大丈夫発想は狂っている

 「どう考えたって、手順逆だから」

 営業の方でサクッと給付されちゃう現実がやって来てたら
 そりゃマイナンバー登録する気にもなるでしょう(其は動機の必然)


> 馬鹿なんですか?、ケチなんですか?、貧乏国家なんですか?


 福沢諭吉の「学問のすゝめ」によれば、勉強しないから貧乏だそうです
 へぇ、日本も落ちたもんですね、国庫の諭吉が泣いてるぞ


|紅葉 打つ石段や雨コロナ禍に 散るも散らぬも諭吉の泪




posted by 木田舎滝ゆる里 at 03:25 | Comment(0) | 日記/2020 | 更新情報をチェックする

2020年12月01日

【詩】権利と義務VS責任と義務

向宜詠吟.2020/12/01

詰まらないから引け目を感じる
楽しいと有頂天にも自惚れる
これがヒトの脳内で行われる自己評価のトポロジー的陳腐化である
(幸福感と不幸感の二極化する分かれ目である)

詰まらないにも、楽しいにも、そこに現象としての価値に差なんか無い

そこに価値の差がある思っている人格や世界では、公平感を勝ち取る事など無理
(人権視野において、男と女に差が無いはずだと思っているなら尚のことだ)

誰にでも等しく光なり、水なりとした勢いや鎮まりを性質として有している
その有しているとした事実の尊重こそが大事で、現象においてどうであるかと言う事では無い


ならば、差があると思っているそんな脳みそには、「うんこたれ脳症候群」を翳すしかあるまい
誰だって‥うんこをせずにはいられない造りになっている
それはつまり、うんこ自体に善も悪も無いのだ
悪があるとしたら‥諸処の問題に対して、十分なトイレを用意できない脳にこそある
ヒトの文化を尊重するためにあるのが人権保障なら尚のことだ
つまり、うんこたれ脳症候群とは、共有理解を得ようとしない&得ぬ症候群という事になる


「どちらが正しいかでは無い、必要なトイレのあり方は何か?」‥なのである


‥これの理解に乏しいと
ついつい「権利と義務」とした錯覚をやらかすことになる

国民主権を語っているのに、どうして中央集権化がされてしまうのだろうか?
どうしてそれが圧倒的に当然とした見方に呑み込まれてしまっているのだろうか?
どうして納税の多寡が、人格の評価にまで及んでしまうのだろうか?

「どう考えたって不可解しい」


‥ならばここに、高らかに声を挙げよう
中央集権なんて無い、中央責任があるだけだと
それが国民主権としての民主社会の定義なのだと


「権利」酔いしている糞野郎共がやらかしているのは、納税の義務である
そのくせケチケチとした保障をやり合うだけで、環境破壊を同時に推し進めたうんこたれだった
安全保障だけであとは首が回りませんとしたうんこたれ脳だった
その挙げ句の果てに増税だった

それで一体どれだけの幸福が創造されたというのかね?
どう考えたって不幸感の創造の方に片寄った
どう考えたって違憲信仰だった
あれらこそが反社会規範だったのである


‥もう一度言おう
「中央集権なんて無い、中央責任があるだけだ」


そうだ、人権を公平に取り持つ上での責任権があるだけだ
それが果たされていないなら、納税の義務の要請を語る資格などない

納税の多寡で無能有能を評価し合う風潮にしたって
そんなの憲法のどこに示されているというのかね?

そんな文言があったら、人権尊重にならない
なのにどうして能力主義が横行するのだろうか?
なのにどうして能力主義を信仰するのだろうか?
そんな脳では、自ら民主社会をすり替えてきただけであろう


‥足りなかったのは何だったかと問うなら
競争を互いのモチベーションとして譲れないのなら
環境破壊をやらかさない上での公平を整備しなかったという点に尽きる
生存権としての最低限の補償を有さなかった点である

つまり「無償融資」
もとい「創造補償たる仕組みの公平整備」
もとい「諸問題へのトイレ思考」だった

そこに責任を持つことこそ、民主社会を練り上げる上での創造力と為せるのだ



> うた詠み終わります、ありがとうございました。



posted by 木田舎滝ゆる里 at 13:04 | Comment(0) | 科特隊どころか無理だからウルトラ経済大作戦 | 更新情報をチェックする