改稿.2020/12/10...20201209...
エゴ(私なる懐疑)は、私の主観以外に存在し得ていない
共存共営たる意志で周囲に介入し合わない限り、私たちなる存在性(宇宙)は拡大し得ない
自らの意志の尊重と他者の意志の尊重は、互いの懐疑を打ち消し合えなければ釣り合わない
釣り合わないところに発生した幸福感など、所詮、紛いモノである
私たちの善は、善徳行為だろうと悪徳行為だろうと
すべては依頼依存から始まっている
つまり「依頼正義」とした宇宙観に漂うのがヒトたる宿命となる
「お願いする側」と「請け負った側」との礼を尽くさんとした型こそが
この世の力の源たり得ると定義されている(らしい‥)
> なので、「ぼっち」や「独善」に力が授からないとした構造が本則だったりする
‥又、依頼を得ずにやらかす思い込み正義や、自己中な悪意・悪業は、同質の結果をもたらす
(つまり、貴方自体が排除依頼の対象となるばかりの可能性の中に置かれる)
なので、思い込み正義や悪意に染まっただけのエゴは似た者同士で、力の根源からは遠い扱いだ
なので、騙されていようと排除依頼を果たしたのなら、その行為には多少の救いが差し伸べられる
一方、悪意を有する排除依頼をすすめるばかりの者らは
請負人がいなくなる事で、力を失い、途端に消滅する仕組みに置かれているので
そこを理解していればいるほどに、巧妙な罠を張り巡らしている
この罠に絡まったままの請け負い手は、どうしたって同罪の扱いだ
(つまり、ザル法国家群ほど怪しい依頼構造体もないと言えよう)
> さて、貴方の選択は、全体にとって正しいと言い切れているだろうか?
その全体の幅をどう解釈しているかでも、貴方の生命力は制限を受ける事になる
(自己中、ファミリー、立憲制度、地域、国家、惑星環境すべて、宇宙生命すべての生い立ち)
貴方には、貴方の理解の範囲でしか生命力が与えられないのだ
もとい、自らの創造力がその程度の枠組とした制限を己に科するようなものだ
(塵一つにさえその存在の有益性を問う者が居たとしたら、どうしたって差が出る事になる)
それゆえに、敵対する勢力は少ないに限る
もとい、己の中に潜む排除観(エゴ)を薄める事が大事となる
意見の相違の発生はどうしたって想定内だ(スタート位置に思い悩む必要はない)
だが、理解しようとしない勝手は、学ばざる姿勢であり、生命の源からの抗議を受けざるを得ない
「学ぶ姿勢有らずんば、創造力を得ず」
貴方や貴方の勢力だけが勝ち傲る為の創造力など与えられる事はない
有るとしたら、其が妄想や思い込みだったとした差を取れるか否かの学びの場とした範疇である
「価値解釈とて、縦横無尽で宇宙そのものだ」
「誰彼と抱く正義すら‥誰も太鼓判を押せやしまい」
「だからといって証明したいとした願望に、他者からの依頼やら祈りを得ていただろうか?」
> では問おう、貴方の人生において、貴方の為してきた手順と行為に価値を支持できるかね?
ウルトラマンは、「HELP ME」依頼が心の底から願われて、はじめてやって来る
魔法少女やらセーラームーンのように慈善活動ばりの正義観に支持があると思うのは妄想の類だ
(妖精キャラからの依頼が無かったとは言わないが、内輪より過ぎて微妙だ)
貴方の価値観が常に固定されていて完成した状態でしたと言い切るなら
貴方は人生において、あらゆる物事に関心を持ち合わさなかったとも言えるのだ
それはつまり、貴方は他者(敵)から学ぶ事などなにも無かったと傲ったも同じになる
ならば、創造力に満ち満ちた人生だったとは、とてもとても口にできまいて‥
どちらかといえば、未知未知ていたはずだ(あいつ・あいつらはどうして○○なんだ?)
それでも、貴方が狭く盲目的に生きたかったのならそれはそれで成功だっただろう(唯物観)
だがしかし宇宙は広い、価値観が広いから如何様にも映るのだとしたら
どうしたって、それとは釣り合っていなかったとしたざわつき感は拭えまい
ざわつき感が拭えないのなら、その分‥損した人生だったと思うべきだった‥(唯心観)
ゆえに、人生における恥ずかしさと、まずい事をしでかしているとしたざわつき感は同質なのだ
つまり、恥ずかしさの拭えない心持ちは、うまく行かないとしたバロメーターの提示だった
> ならば、恥ずかしさに鈍くなるばかりの世界観に、何一つまともなモノなどありゃしない
> だからといって、恥ずかしさの途絶えぬ気持ちに守護が寄り添い続けるわけではない
> (道具とセンサーと機会は使いようなのだから)
‥なんだかんだと、何事もやってみないと分からないとした好奇心が宇宙には在る
されど、出尽くしている感も勿論あるので個人の才覚頼みとした構造におかれている
「宇宙に未だ完璧など無し」とした依頼の入れ子式構造がそこに在るのだ