2021年03月11日

【毒論】ヒトの行為の全ては毒であり、糞自由でしかないと仮定する

記稿.2021/03/11

> 人の行為の全ては毒であり、相対的にすべてにおける療法&良法は存在し得ない
> 人類の自由はそれら毒の扱い方を知らずにやらかすばかりの勝手自由なだけだった
> 誰しも自らの毒に耐性があるが故に
> 迷惑の善し悪しとして気配りの用の阿吽を全て知り得ていない
> 仮に、それぞれの毒の善し悪しの特性を理解し得ている者が居たならば
> その度合いの範囲において、もしかしたら療法&良法たり得るかも知れない
> だがしかしオールマイティな役をこなせるだけのモチベーションなど持ち合わせていないだろう
> そのような負荷を自らに課して乗り越えられるなら、その者の毒耐性は相当に高い
>(だが一般的に斯様な毒耐性が高い場合、人たらしor糞野郎orお馬鹿orお花畑だったりする)


 ‥人生の全てが面倒くさいのは、全ての関わりが毒に見えるからである
 そして自らの行為の全ても又、毒々しく見えてしまうからである
 その様な視点から人生を眺めると、毒の種類と使い所を知らずして正義など無きに等しい

 ‥だがしかし、人の暮らしの変化によっては
 それら毒だった関わりが解決されて、新たな毒性の発生も示唆されよう
 (歩きスマホ&ながらスマホは、それの典型例と言える)
 ならば、全て科学&心理を知り得ない内は、誰も正義など成し得ていないと言えるだろう

 ‥所詮、人類の口にする自由だ正義だなどとは、毒性のどんぐりの背比べでしかないのだ


> その昔、それらすべて冒す何かは毒として扱われてきた
> だが科学の発達で、それの毒にも中身に違いがあると分かってきた


 ‥化学的に生命を殺す物質毒
 ‥生態的に細胞を脅かす生物
 (最終的にツッコめば、物質毒とした見方に絞られるにしても、過程による違いの差は明らかだ)


 ‥ならば、精神的に冒してくる毒概念だって多様だろう
 (武器や兵器を用いた殺害ならそれを攻撃毒(殺意)と定義できる)

 ‥ある者には何でも無い事象(風習)なのに、ある者には毒にしかならない何か
 そんな価値観での相対性を言い始めると、人権保障などとした文言が糞にしか見えてこない

 (はじめから人権保障など無理、模索の段階で偉そうなこと言うな!)
 (毒論からして振り返ってみれば、多数決正義などそれこそ机上の空論だった)
 (お互いが相対性毒存在でしかないと理解し合ってこそだった)
 (其を省いて、はじめの一歩とすべき公平な価値概念など形成されるわけが無い!)


> 一般に毒を有する植物を使えるようにするには、無毒化が求められる
> 人の行為に当てはめてみれば、躾け&教育だ


 ところが其れの基準が親頼みでしかないなら、そりゃ相対的毒性はそのままだ
 だからといって集団教育になると、今度は毒耐性まで抜かれて骨抜きにだって陥る
 何が正しいのかなんて、推し量ることの難しきに晒されよう


> だがしかし、お互いに毒でしか無い関わりだとして喩えて認識することで
> 出来レースありきで多数決に欠いて来た要素が丸わかりになる


 ‥私たちのほぼ全員が、ヒトをどんぶり勘定でしか推し量れていないのに
 それぞれの意思を無理矢理に正当化して尊重しようとしていただけだった

 ‥どんなおいしい料理だって、目的に向かって邪魔な要素を選び分けしないままなら
 ぬるま湯に浸かったままの風味にしかならない

 ‥だが、それらがどのような風味を醸し出すのかを誰も知らないがゆえに
 反対上等のまま、前に進み得ぬ現実が立ちはだかってきた
 (そして今後もそのままに違いない‥それが毒視敵視したままに自らが正しい主張の社会性だから)
 (お互いに毒なのに成果主義も糞も無い、どれだけの毒を以て多くを魅了したかに意味なんてねぇ)


> 求められるべき行為の毒抜きは、自らが考えて、一歩ずつ進めるしか無いのだ


 ‥時には、毒を以て毒を制するなんて必要を迫られたりするものだったりと
 ‥そのつもりだったのに、毒に呑み込まれてすっかり染まっていたりと
 ‥でいっそうのこと、大毒になってみれば解ることもあるかも知れないと開き直ったりと
 ‥でもそんな毒寄り発想は、今や無駄な人生だったって誰しもが思っているくさいのだった

 「毒利用わざよりも毒抜きわざを積み重ねずして毒の相殺を得ず」



posted by 木田舎滝ゆる里 at 19:58 | Comment(0) | 科特隊どころか無理だからウルトラ経済大作戦 | 更新情報をチェックする

【ネタ】とある監視システムの方向性

記稿.2021/03/11

> へんな夢を見た
> 緑の芝のある広い庭にサッカーボールサイズの青いボールがそこらに散らばっていた
> (当然蹴りたくなる)
> 一つを蹴った途端に全部が犬の姿に変わったらしい(ボールはどこ行った?)
> 玩具としてなら、そのまま追いかけるわけで、ドツボで逃げられていた


 ‥是を玩具若しくは監視システムに応用できないか?

 蹴った相手が誰かをまず確認するのはもちろんだが
 侵入者なら、ペイント弾での威嚇が適当で
 畑を荒らす獣なら、時には唐辛子液を噴射してやったり
 囲んで威嚇して発砲音で脅かしたり、ハイビームをチカチカさせて目くらまししてやったり

 (学習されそうなら、イタズラの度合いによって怒られていると判断できるようにすれば良い)
 (はじめは遊んでやって仲良くなる空気を作ることが、警戒されすぎない上でのポイントだ)


 ‥あとは、生態調査用のカメラ作動用のトリックに使用したりと
 普段、外におきっぱに成りがちなら
 充電しやすい位置に自動的に移動したり、夜は湿気をさけて木陰に移動するなどすれば
 生態調査用としても長持ちしそうである

 (夜は地面でおねんね、昼は上昇して気象データの送信やら野性動物の確認報告など)
 (複数基で連携して電源効率を高めて保てば、なかなかの調査システムにでき)
 (宇宙からなどという大それた事をやらずとも細かいところに手の届くシステムにできそう)


 ‥さらに特定デザインを用いることで、其れを撮影してネットにアップすれば
 どこどこの会社が調査に使用中などの情報を得られたりできるようになるなど
 ボール回収する上での情報共有にもなる

 なんにしても四つ足で起動するノウハウはすでに地球上にあるわけで
 それの小型版にメタモルフォーゼ機能を追加すりゃ良いだけの話で
 そのぐらいホイホイやれないなら
 ガンダムサイズでの変形機構やらオールレンジ攻撃やら夢物語である

 (四つ足のアレを作り出した会社にしたって、兵器利用目的前提って事もあるまい)



posted by 木田舎滝ゆる里 at 13:38 | Comment(0) | 日記/2021 | 更新情報をチェックする