↓2)記稿.2021/08/12
人間とは捕食に悩める生態である。もとい精神を抱え持つ。それ以上でも以下でも無い。
ゆえにヒトは、無理を引き起こさぬよう注意を求め、お互いに善悪バランスでの心得を要求する。
ならば、無理を引き起こすばかりの自由な社会構造に正義無し。地球環境を破壊たらしめるに及んだ私たちの科学観・自由観に正しさなど無かった。皆無に等しかった。それが現代とした群衆だった。
‥何であれ、夢をどれほどに実現できるかは人生の関心事だ。其を競争にしようと仕向け合ってきたのだから尚のことだった。出遅れては夢は叶わない条件下なら、どうしたって、細かいケアは捨て置きになりがちだ。即ち、うそつきありきの同意体だった。インチキありきの同意体だった。
ならば、夢を持てない・持たない・描けない側が居たって不思議は無い。もとい、斯様な悩ましさを心に抱え込むならば、夢見る推奨社会ほど‥苦痛で迷惑で押しつけがましき価値観もまたとない。
(人の適正や想像力には差があるのだから、そのような個性の発露は珍しくも何ともない)
そればかりか、夢を描けなければ描けないで、劣等感の植え付けのようなものにすり替わるのだから、そこから脱したい欲求に駆られてしまうのも流れだ。
(ホトホト迷惑な動機でどうしようもない)
そんな動機は、概ね役に何てなりゃしない。誰かの真似は泥棒視でしかなく、受け売りもまた似たようなモノで、誰だって自信に繋がるほどの学びを実感するに程遠い。
なんであれ、オリジナルと呼べるレベルに辿り着くには、それ相当の好奇心が有ってこそだ。
だが、よくよく考えるまでもなく、多くのほとんどは、人真似に受け売り止まりなのだから、競争の先にあるスタンスにしたって、人真似の憧れだ。
成功の多くの背後には、配分をケチって夢を叶えた程度の姿しかないのにそれで良いと思っている。思い込んでいる。それが競争だとして、競争を勝ち抜いたとした気持ち一つで以て自慢げだ。
成功者がそんなのばかりでは、誰だろうと‥うやむやな空気に呑み込まれるばかりで、続けとばかりに、俺も私もと試してみたくなるとした勢いにもなろう。
なにはともあれ‥勢い任せに押し切って良いと言わんばかりなのだからな‥
そして、肝心なのは、それの勢いなるシロモノを誰も悪とも必要悪とも思っちゃいない‥
サーフィンにしたって波に乗ってなんぼのスポーツだ。感覚はまさにそれに近い。
だからだろうか、それら好奇心からの吸収力によって、どのような方向に向かうのかは、全く以て無警戒な口が、この手の「夢を持とう」になっている。それは、勧める方も欲する方も同じだ。
そして不思議な事に、ある程度の好奇心が満たされたというか、自分の程度が判り出すと、途端に、無警戒だったはずのそれは、まるで無形が有形に変わったかのように、好き嫌いのオンパレードに切り替わるのだ。
(「やってみなはれ」だったそれは、いつのまにやら、「駄目、無理、無駄」の剣幕なのである)
誰がどう見たって、人それぞれの好き嫌いに意味があるとしたら当人の価値観の方向だけだ。
第三者視点から見たら、それぞれの価値にそれほどの差は見られない次第の向きになる。
他人それそれの細かき事情など、知ったことでは無いのだ。関心が無いのだ。
自分ファーストなら尚更だろう。
事件・事案にならない限り許容された事柄として判断されるばかりだろう。
ならば、潮目を変えたいなら、マジになって事件事案を引き起こし続けなければならない。
そういう刹那たる空気が世間にはある。
だからこそだろう。大半の普段は、それぞれを無視したままで良いとして思い込んでいる。
無視して進められる社会などどこにも無いのに、誰もは、無視スタートをやらかしている。
夢の大きい小さいに関わらず、それほどに、好きバイアス・嫌いバイアスに罹るのだ。
罹ったままを良しとしてしまうのだ。さらには、その手のバイアスを抱えたままに、それこそをモチベーションだとして邁進すべきが空気だったりとする。
‥大概の多くは、好きな事で埋め尽くしたく
‥嫌いなモノを排除したいとした欲求を日々増幅させ
‥その様などうしようもなく偏った異常な精神状態を来してしまっているというのに
‥自身を創造するための最善の追求の仕方として、そのような気持ちの是非を正しいと思い込むばかりで、結局のところは、「夢ハラスメント脳」と化してしまった状態に、全くの無警戒を誇ったままだ。
夢ハラスメント脳のもたらす厄災は、慢性的な排他主義である‥其は地球環境破壊すら厭わない。
夢ハラスメント脳のもたらす厄災は、慢性的な排他主義である‥其は地球環境破壊すら厭わない。
夢ハラスメント脳のもたらす厄災は、慢性的な排他主義である‥其は地球環境破壊すら厭わない。
競争過剰がもたらしているところの大なる夢ハラスメント脳は、夢を実現させる者の達成率が低い。もしくは、為した後の経過が芳しくなければ落ちぶれるのが流れだ。
その率の高さからも、圧倒的に夢を実現させている者が成功うんちくを語れば語るほどに、格差に火に油を注ぐだけの空気をもたらす。(所謂、妬み嫉みからなる偏見だ)
この問題の多くは、誰しもの夢の実現の多くが、自分の好みであるとした方向にしか無いことだ。守りより攻めとした、どこかの文化色そのままに引きずり込まれる。それゆえに、誰も格差改善に向けた全力を発揮するところが無いとしたオチに尽きるのだ。
‥誰しも、暮らし向きの利便や都合をもたらす好奇心は高いのに‥
夢を実現させるための原理が、人気投票構造でしかないなら、どうしてわざわざ自分の評に不利になる事実をぶちまけるだろうか?
それゆえ、自分から評が離れてしまう事を嫌がるあまり、格差がある事をむしろ肯定してしまう搾取原理に同意しがちな傾向にハマっている。
(元気玉を集める経済力やカリスマを有するのは、僕だけでありたいみたいな‥)
(その集まった元気玉は僕の自由に使えるのだから‥そうするのが自由権の行使だとかなんとか‥)
‥一方で、弱者は強者に頼らざるを得ないとした形こそ評たる用の世界観であり、強者が弱者にお願いはしても、細かき説明を省きがちなのも評たる用からの秘匿性に及んでいる。
(なんという暗黙的なアンフェアの促しだろうや‥)
誰だって、弱さ・弱みを見せては評に影響すると考えるのだから、そりゃ、嘘でもバレなきゃ良いとしたやっつけに陥るのが流れになる。
そこから脱する気のない世界観にハマっている限り、勝敗を決する要素の多くが、インチキだったりカマカケだったりバイアスだったりする。
(それが競争過剰の本質だ、もとい夢過剰とした日常だ)
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