↓5)記稿.2022/02/18
> 人類は、社会活動をせざるを得ない群体にある
> 文化享受を得るにも、一人で生きるよりは、積極的に交流をした方がお得に見える
> それゆえに、なぜか、誰かが治めざるを得ないという不可解な構造をも醸し出す
‥その長が事もあろうに
交流に値しないバイアスを設けてしまうという癖を持つ(人権保障も糞も無い)
だから、文化享受の在り方に独特の混乱が常に付きまとう
結果、偏見の強い文化色とは付き合えないとした反発が生まれるのも日常と化した
(人権保障とはそういう文化方向だった)
‥だがしかし
文化享受との向き合い方は諸々で、そのスタイルそのものからしてバイアスが付きまとう
そしてそのバイアスをも含めて個性として見立て‥結果‥
‥基本的人権の精神とは明らかに違うのに
偏見を抱いてしまうのは、致し方が無いとばかりに
偏見を行使することも、利用することも自由権の範疇だと勘違いやらかす輩が多くある‥
(これの性癖‥もとい、すり替えくささを誰もツッコまないのは糞すぎる)
‥文化交流の醍醐味としての商いは、とくに其を刺激する
お互いが交換による差益を目的とし、競争と化すれば、格差が生まれるのは当然の流れだった
(政府からして勝ち組からの支援を期待し、その勝ち組は優遇を期待する)
(負け組への人権保障など、口ばかりのなんちゃってでしかないのに)
(お得が好いとばかりにバイアス誘導されてしまう大衆心理には唖然とする)
‥格差を生んだのは、それのバイアス由来で
そもそもからして誰しもがこう信じていた‥「周りを出し抜いて、俺こそが秀でてやる」
(誰しもは、競争する以前から、賊ぽっさに染まった性悪含みにあることが多かった)
(完璧な○○など居ないと開き直っているのか)
(まずは、自分こそが豊かさを得るべきだとしか頭になかった)
(金貸しが自分たちの行いを慈善活動だとすり替えて自己満だったとすれば尚更だった)
> だが他者より一歩秀でる為には、なんであれ‥人気を博するかどうかが鍵になっている
> だがそれに嫉妬が付きまとうともなれば、競争は泥沼化するのが空気だった
> (幸福の創造が、誰かの幸福を阻害する創造へとすり替わるのだ)
(困っている奴のさらに泣きっ面を見るのが楽しいなどという方向は‥100%人権侵害である‥)
‥ならその時、狡猾な貴方なら、どのような企てを以て対処するだろうか?
それのスタンダードは、優秀な人材を掻き集めて事に当たらせることである
だがしかし、優秀を鼻に掛けてる連中に慈善的な逸材なんかほとんどいやしない
自分たちの優秀さを組織内で示せれば、取りあえず問題は無いはずだと高を括っていれば尚更だ
その様な組織は、自ずと独善化する(それが二十世紀だった‥目論見は実に見事だった‥)
> 企業が独善化してしまう欠点こそ、椅子取りゲームとした権力の踏襲を認めているからだ
> 政治でさえ三権分立とした概念を設けてあるのに、企業経営にはそれらしいものはない
> 愚直にもオーナー権限が最もで、それも投資の比率で決を採るとしただけのズボラさだ
> 優秀さの発揮どころも、支持の差も糞も無い(単に椅子の趣向を前提とした請け負いだ)
‥会社をオーナーの持ち物だとした概要は、競争の為の発想だ
発行権を矛に、文化侵略を目的としたオレ様の天下づくりとしたゲーム感覚だ
(それへの協賛者が全体の3割、傭兵上等群併せて4割‥存在してきたというのが実際に思われる)
そこには、文化享受たる形が、誰しもに対等にあるべきだとした常識を破らんとした意図しかない
‥斯様な勢力群が、世の中の奉仕精神を破壊し出すのに、200〜300年あれば十分だった
このままに阻止することなく突っ走らせれば、社会から奉仕精神が消えるのに400年を待つまい
‥それがどのような文化方向かと問うなら
真面目に頑張る背中を見て感心する比率がぐぐっと減ると言う事である
つまり、人気の在り方が、単にカリスマ色だったりお家主義だったりとした方向だ
(そのような社会には、命やヒトに価値など無い、成績やイスにこそ価値が在るとした風潮だ)
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