↓2)記稿.2022/03/04
> 私たちは矛盾を解消させようと一生懸命だ
> だがしかし、言葉として、事象の集合すべてを語らんとしたなら
> 矛盾とした事象は、そのままに解消されずに絡まり合ってこそ説明可能だ
> ならば、この世からすべて矛盾を取り除いたとしたら、私たちは哲学を失い無知になるだろう
「では、私たちはどれ程に矛盾を取り除けたなら素敵になれるだろうか?」
つまり、人類の抱え持つ悩ましさの多くが、そういうシンプルな見方に集約される事に成る
> 例えば、あなたが博打に熱中している時、何を心の支えにしてあるだろうか?
‥博打とは面白いモノで
自分の信ずる所が大事だとしていながら、心のどこかでは支えを求めて彷徨っている
それがあからさまにされるゲームでもある
翻せば、心の支えたるを再確認するためのゲームが博打とも言えよう
ゆえに、コテコテの唯物論者や無神論者でさえ「運否天賦」を口にせずには居られない‥
勝つ為にも、もとい、生き残る為にも、博打の際に、自分以外に信ずる何かを容認してしまうのだ
自分以外は信じないスタンスだったのに
博打を運否天賦の凌ぎ合いに見立てることで、こそっとはみ出て認めてしまうのだ
そうだ、自分より深遠なる叡智と云わんばかりの喩えとして運否天賦を持ち込んでしまうのは
どう考えたって、神なる響きの代替でしかないのだ
(いやいやいや、我こそは神なりとした俺&俺らの価値とやらを問うている所でもある)
つまり、最期の最後では、人類のほぼ100%が運否天賦信仰なのだ
‥このように、個々の内面に抱え込んである矛盾は、多くありそうだ
このような矛盾は解消させるに構わない内訳だ
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